正直に言えばよかったのでしょうが、わたくしは何だか言いそびれて、叔母さんはわたしがお湯に行っている留守に来たのだから、どんな話をしたのかよく知らないと、いい加減にごまかしてしまいました。お定はだまってうなずいていましたが、その苦労ありそうな顔は、わたくしにもよく判りました。やがて横町の角へ来たので、そこで別れて二、三間ほど歩き出しますと、お定は引っ返してわたくしのあとを追って来ました。そうして、わたくしの耳の端《はた》へ口を寄せるようにして、小声に少し力を籠《こ》めて言いました。
「およっちゃんと仲よくして頂戴よ。」
 そう言ったかと思うと、足早にまた引っ返して行ってしまいました。なんの訳だか判りません。きょうに限って、お定がなぜわざわざそんなことを言ったのか、わたくしも少しおかしく思いました。
 およっちゃんというのは妹のお由のことで、わたくしの兄とは三つ違いでございまして、従妹《いとこ》同士の重縁《じゅうえん》でゆくゆくは兄と一緒にするという相談が、双方の親たちのあいだに結ばれていることを、わたくしも薄うす承知していましたから、わたくしに向っておよっちゃんと仲よくしてくれというのは判っています。しかし今さら思い出したように往来のまん中で、だしぬけにそんなことを言ったのはどういう料簡《りょうけん》か、年のゆかないわたくしには呑み込めませんでしたが、それでも深くも気に留めないで、そのまま自分の家へ帰りました。勿論、母にもそんな話はしませんでした。
 その日はずいぶん暑かったのを覚えています。あんまり蒸すから今に夕立でも降るかも知れないと母が言っていますと、果して七つ半、唯今の午後五時でございます。その頃から空が陰って来ました。西の方角で遠い雷《らい》の音がきこえました。わたくしも雷が嫌いですが、母はなおさら嫌いで、かみなり様が鳴り出したが最後、顔の色をかえて半病人のようになってしまうのでございます。空は陰って来る、雷は鳴って来る、母の顔色はだんだん悪くなって来る。わたくしもかねて心得ていますから、蚊帳《かや》を吊る。お線香の支度をする。それから裏の空き地へ出て干物《ほしもの》を片づける。そのうちに大粒の雨が降って来る。いなびかりがする。あわてて雨戸を繰出《くりだ》している間に、母は蚊帳のなかへ逃げ込んでしまいました。
 いや、こんなことを詳しく申上げていては長くなります。とにかく、それから半|時《とき》あまりは雨と雷と稲びかりとが続いて、わたくしも仕舞いには母の蚊帳のなかへもぐり込むような始末でございました。横町の中ほどにある大きい銀杏《いちょう》に雷が落ちたときには、わたくしも気が遠くなるくらいに驚かされました。
 その夕立もようやく通り過ぎて、ゆう日のひかりが薄く洩れて来たので、母もわたくしも生きかえったように元気が出て、蚊帳をはずしたり、雨戸を明けたりしていると、どこの家でも同じことで、雨戸をあける音や、人の話し声や、往来をあるく足音や、それらが一緒になって、世間は夜があけたように賑やかになりました。
「さっきのかみなり様は一つ、どこか近所へお下《さが》りなすったに相違ないよ。」と、母は言いました。
「そうでしょうねえ。」
 そんなことを話し合っているうちに、表はいよいよ騒がしくなって、大勢の人が駈けて行く足音がきこえます。そうして、女だとか若い女だとかいう声がきこえます。何事が起ったのかとわたくしも表へ出てみると、横町の中ほどにある銀杏のまわりに大勢の人があつまっているので、雷はあすこへ落ちたのだろうと思いましたが、若い女だというのが判りません。もしや誰かが雷に撃たれたのかと、怖いものを見たさに駈けて行きますと、案の通り、そこには若い女が倒れているのでございます。
 女は雨やどりをするつもりで銀杏の下へ駈け込んだのか、それとも、ちょうど銀杏の下を通りかかったのか、いずれにしても、その木に雷が落ちたために、女も撃たれて死んだらしいのです。
 雷に撃たれて死んだ人を生れてから初めて見て、わたくしは思わずぞっとしましたが、もう一つ驚かされたのは、倒れている女の右の腕あたりにかなり大きい一匹の青い蛇が長くなって死んでいることでした。
 そこらにいた人たちの話では、その蛇は銀杏の洞《うつろ》のなかに棲んでいたものだろうということで、勿論その女に関係はないのでしょうが、なにしろ若い女が髪をふり乱して倒れている。その腕のあたりに長い蛇が死んでいるというわけですから、わたくしはまたぞっとしました。
 それだけで逃げて帰ればよろしいのですが、唯今も申す通りに怖いもの見たさで、わたくしは怖ごわながらそっと覗いてみると、その女の顔には見覚えがあります。年のころは二十二、三の粋な女――きのうのお午ごろ、叔父と一緒にわたくしの家のまえに立っていた女――着物は変っていましたけれど、確かにそれに相違ないので、わたくしは俄かにからだ中が冷たくなって、手も足もすくんでしまうように思われました。どこの何という人か知りませんけれど、ともかくも叔父と連れ立って、きのうここへ来た女がきょうもまたここへ来て、しかも雷に撃たれて死んだということが、わたくしに取っては不思議なような、怖ろしいような、何かの因縁《いんねん》があるような、一種の言うにいわれない不気味さを感じたのでございます。こう申すと、みなさんは定めてお笑いになるかも知れませんが、わたくしはその時まったく怖かったのでございます。
 死骸のまわりには大勢の人があつまっていましたが、唯《ただ》がやがやと騒いでいるばかりで、その女がどこの誰だか、識っている者はないようでございます。自身番からも人が来て、御検視を願うのだとか言っていました。
 叔父のところへ知らせてやれば、おそらく身許《みもと》は判るだろうと思うのですけれど、うっかりしたことを言っていいか悪いか判りませんから、わたくしは急いで家へ帰って来て、母にその話をしますと、母も顔をしかめて考えていましたが、そんなことに係《かか》り合うと面倒だから、決してなんにも言ってはならないと戒めました。それでもなんだか気にかかるとみえて、母はまた考えながら起《た》ちあがりました。
「おまえ、見違いじゃあるまいね。確かにきのうの女だろうね。」
「ええ、確かにきのうの人でした。」と、わたくしは受合うように言いました。
「それじゃ会津屋へ行って、叔父さんにそっと耳打ちをして来ようかねえ。」
 母は思いきって出て行きました。そのうちに日も暮れてしまって、例の蚊いぶしの時刻になりましたが、わたくしは今夜もぼんやりして、ただ坐ったままでその女のことばかりを考えていました。
 雷に撃たれて死んだのですから、別に叔父の迷惑になるようなこともあるまいとは思うのですが、ともかくも叔父の識っている人が変死を遂げたということだけでも、決していい心持はいたしません。その女は夕立の最中になんでこの横町へ来たのだろう。もしやわたしの家へたずねて来る途中ではなかったか。そうすると、わたくしの家の者も自身番へ呼出されて、なにかのお調べを受けはしまいかなどと、それからそれへといろいろのことを考えて、いよいよ忌《いや》な心持になっているところへ、母があわただしく帰って来ました。
「まあちゃん。」
 わたくしを呼ぶ声がふだんと変っているので、なんだかぎょっとして振返ると、母は息をはずませながら小声で言い聞かせました。
「会津屋のさあちゃんが何処《どこ》へか行ってしまったとさ。」
「あら、さあちゃんが……。どうして……。」
 わたしもびっくりしました。

     三

 母の話はこういうのでございます。
 会津屋の姉お定は、きょうのお午《ひる》ごろに妹と一緒にお稽古から帰って、お午の御飯をたべてしまって、それから近所の糸屋へ糸を買いに行くといって出たままで帰って来ない。家でも不審に思って、糸屋へ聞合せにやると、お定はけさから一度も買い物に来ないという。いよいよ不思議に思って、妹のお由のお友達のところを二、三軒たずねて歩いたのですが、お定はやはりどこへも姿を見せないというのです。
 叔父は例の通りに、朝から家を出たぎりですから、叔母ひとりが頻《しき》りに心配しているうちに、夕立が降ってくる、雷が鳴るというわけで、母も妹も不安がますます大きくなるばかり。そのうちに夕立もやんだので、夕《ゆう》の御飯を食べてから、叔母はその相談ながらわたくしの家へ来るつもりであったそうでございます。そこへこちらから尋ねて行ったので、まあ丁度よいところへといったようなわけで、叔母は母にむかって早速にその話を始めたのです。こちらから話そうと思って出かけたところを、あべこべに向うから話しかけられて、母も少し面喰らったそうでございます。
 お定の家出にも驚かされましたが、こちらも話すだけのことは話さなければなりませんので、母もかの女のことを話し出しますと、叔母も不思議そうな顔をして聴いていました。そんな女については一向に心あたりがないと言ったそうで……。なにしろこの頃の叔父のことですから、どこにどういう知人が出来ているのか、叔母にも見当が付かないらしいのでございます。
 一方には会津屋のむすめが家出をする、一方には叔父に係り合いのあるらしい女が雷に撃たれている。この二つの事件がまるで別々であるのか、それともその間に何かの縁をひいているのか、それも一切《いっさい》わからないので、叔母も母もなんだか夢のような心持で、ただ溜息をついているばかりでしたが、一方の女のことはともかくも、娘の家出――多分そうだろうと思われるのですが、この方はそのままにして置くことは出来ませんから、店の者にも言い付けて、それぞれに手分けをして心あたりを探させることにしたというのでございます。
 半日ぐらい帰らないからといって、こんなに騒ぐのもおかしいと思召すかも知れませんが、その頃の堅気の家のむすめは誰にも断りなしに遠いところへ行くことはありません。たとい近所へ行くにしても必ず断って出る筈ですから、小《こ》半日もその行くえが知れないとなれば、ひと騒ぎでございます。ましてことし十八という年頃の娘ですから尚更のことで、誰かと駈落ちでもしたか、誰かにかどわかされたか、なにしろ唯事ではあるまいと思うのが普通の人情でございます。叔母が心配するのも無理はありません。
 いつまで叔母と向い合って、溜息をついていても果てしがないので、母はまた来るからといって一旦帰って来たのでございます。その話をしてしまって、母はわたくしに訊きました。
「さあちゃんは何処かの若い人と仲よくしていたかしら。おまえ、知らないかえ。」
「そんなことは……。あたし知りませんわ。」
「ほんとうに知らないかえ。」
 幾たび念を押されても、わたくしは全く知らないのでございます。お定がよその若い男と心安くしているなどというのは、今まで一度も見たこともなし、そんな噂を聞いたこともありません。さっきの夕立の最中に、お定はどこにどうしていたのでしょう。それを思うと、わたくしはまたむやみに悲しくなりました。
 母はまたこんなことをささやきました。
「今、帰る途中で聞いたらば、さっきの死骸は自身番へ運んで行ったが、まだ御検視が済まないそうだよ。」
「どこの人でしょうねえ。」
「それは判らないけれども……。おまえ、決してうっかりした事を言っちゃあいけないよ。誰に訊かれても黙っているんだよ。叔父さんと一緒に歩いていたなんぞと言っちゃあいけないよ。」と、母は繰返して口留めをしました。
 うっかりしたことを言って、それが飛んでもない係り合いになって、町奉行所の白洲《しらす》へたびたび呼出されるようなことがあっては大変ですから、母は堅く口留めをするのでございます。幾度もおなじことを申すようですが、まったくその時のわたくしは怖いような、悲しいような、なんともいえない心持でございました。
 五つ(午後八時)過ぎになって、母は再び会津屋へ出て行きましたが、お定の行くえはやはり知れません。叔父も帰って来ないのでございます。とい
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