一に気にかかるのは継子さんのことです。今別れて来たばかりの継子さんが死ぬなどというはずがありません。けれども、わたくしの耳には一度ならず、二度までも確かにそう聞えたのです。怪しい娘がわたくしに教えてくれたように思われるのです。気の迷いかも知れないと打消しながらもわたくしは妙にそれが気にかかってならないので、いつまでも夢のような心持でそこに突っ立っていました。これから湯河原へ引っ返して見ようかとも思いました。それもなんだか馬鹿らしいように思いました。このまま真っすぐに東京へ帰ろうか、それとも湯河原へ引っ返そうかと、わたくしはいろいろに考えていましたが、どう考えてもそんなことの有りようはないように思われました。お天気のいい真っ昼間、しかも停車場の混雑のなかで、怪しい娘が継子さんの死を知らせてくれる――そんな事のあるべきはずがないと思われましたので、わたくしは思い切って東京へ帰ることに決めました。
 そのうちに東京行きの列車が着きましたので、ほかの人たちはみんな乗込みました。わたくしも乗ろうとして又にわかに躊躇しました。まっすぐに東京へ帰ると決心していながら、いざ乗込むという場合になると、不思議に継子さんのことがひどく不安になって来ましたので、乗ろうか乗るまいかと考えているうちに、汽車はわたくしを置去りにして出て行ってしまいました。
 もうこうなると次の列車を待ってはいられません。わたくしは湯河原へ引っ返すことにして、ふたたび小田原行きの電車に乗りました。

 ここまで話して来て、Mの奥さんはひと息ついた。
「まあ、驚くじゃございませんか。それから湯河原へ引っ返しますと、継子さんはほんとうに死んでいるのです。」
「死んでいましたか。」と、聞く人々も眼をみはった。
「わたくしが発った時分にはもちろん何事もなかったのです。それからも別に変った様子もなくって、宿の女中にたのんで、雨のためにもう一日逗留するという電報を東京の家へ送ったそうです。そうして、食卓《ちゃぶだい》にむかって手紙をかき始めたそうです。その手紙はわたくしにあてたもので、自分だけが後に残ってわたくし一人を先へ帰した言いわけが長々と書いてありました。それを書いているあいだに、不二雄さんはタオルを持って一人で風呂場へ出て行って、やがて帰って来てみると、継子さんは食卓の上に俯伏《うっぷ》しているので、初めはなにか考え
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