に溜まっていた。胸も切《せつ》なくなってきた。こめかみも痛んで来た。悪寒《さむけ》もして来た。彼女はもう堪《たま》らなくなって、消えるように座敷からその姿を隠してしまった。
 八月ももう末の夜で、宵々《よいよい》ごとに薄れてゆく天《あま》の河の影が高く空に淡《あわ》く流れていた。すすり泣きをするような溝川の音にまじって、蛙《かわず》は寂しく鳴きつづけていた。
「これ、何を泣く」
 不意に声をかけられて、お染ははっ[#「はっ」に傍点]とした。泣き顔を拭きながら見返ると、自分のうしろに笑いながら突っ立っている男があった。
「泣くほど悲しいことがあれば、おれが力になってやる。話せ」
 お染は身をすくめて黙っていると、男はかさねて言った。
「いや、怖がるな。叱るのでない。何が悲しい、訳をいえ」
 その訳をあからさまに言いにくいので、お染はやはり黙っていた。廊下に洩れて来る灯の影がここまでは届かないので、男の容形《なりかたち》はよく判らなかったが、それが江戸の侍であることは、強いはっきりした関東弁で知られた。お染は彼を今夜の客の一人と知って、いよいよ怖ろしいように思われた。
「座敷を勤めるのが悲しいか」と、強い声はやがて優し味を含んできこえた。「お前の名は何という」
「染と申します」
「お染か。して、今夜の客の誰かに馴染みか」
「いいえ」と、お染は怖《こわ》ごわ答えた。「わたしは今夜が店出しでござります」
「突き出しか」と、男はいよいよ憫《あわ》れむように言った。「うむ、それで泣くか。無理もない。今夜の花はおれが払ってやる。すぐに家《うち》へ帰れ」
 涙がこぼれるほどに有難いとは思ったが、お染はその親切な指図にしたがう訳にはいかなかった。識《し》らない客に花代《はなだい》を払わして、そのまま自分の家へ帰ってゆけば、主人に叱られるのは判り切っているので、彼女はその返答に躊躇《ちゅうちょ》していると、相手はそうした事情をよく知らないらしかった。
「お前は勤めの身でないか。花代さえ滞《とどこお》りなく貰って行ったら、誰も不足をいう者はあるまい。まだほかにむずかしい掟《おきて》でもあるか」
「主人に叱られます」
「判らぬな。主人がなぜ叱る」
「江戸のお客さまを粗末にしたとて……」
 男は悼《いた》ましそうに溜め息をついた。
「それで叱るか。よい、そんならお前が叱られぬように、おれが仲居《なかい》を呼んでよく話してやる。心配するな」
 いかに今夜が店出しでも、お染はもう勤めの女である以上、相手の男よりも色町の事情を承知していた。男の親切はよく判っているが、更に考えてみると、一体この人は自分の客であろうか。自分の客ならばともかくも、ほかの客が横合いから花代を払って勝手に帰れと命令しても、自分の客が承知するかどうか判《わか》らない。仲居もきっと承知しない。そんな掛け合いをするのは無駄なことであると思ったので、彼女はまずこの人が自分の客であるかないかを確かめようとした。
「お前さまのお相方《あいかた》はどなたでござります」
「おれは知らぬ。おれは今夜初めて誘われて来たのだ」と、男は無頓着そうに答えた。「そうして、お前は誰の相手だ」
「わたしも知りませぬ」
 お染は今夜の座敷へ出たはじめから碌々に顔をあげたこともないので、自分の客の年頃も容形《なりかたち》もなんにも知らないのであった。男は自分の相方を知らなかった。女は自分の客を知らなかった。
「おれの相方でなければ自由に帰してやることは出来ぬか」と、男もさすがに気がついたらしく言い出した。
「そうでござります」
「よい。そんならおれがお前を相方にする。そうして、勝手に帰してやる。仲居《なかい》を呼べ」
 それならば幾らか筋道が立っているので、お染は言われたままに仲居をここへ呼んで来た。
「仲居の雪《ゆき》でござります。なんぞ御用と仰しゃりますか」
「ほかでもない。この女をおれにぜひ買わせてくれ」
 仲居はふき出した。
「あの、お前さまの戯言《てんごう》ばっかり。このお染さまはお前のお相方ではござりませぬか」
「ほう、いつの間にかおれの相方と決まっていたか」と、男も笑い出した。「それならば面倒はない。花代はおれが払うから直ぐに帰してやれ。勤め振りが悪いので帰すのでない、気に入らぬので帰すのでない。その訳を主人によく話して聞かせて、この女の叱られぬようにしてやってくれ。よいか」
「ありがとうござります」と、仲居のお雪は取りあえず礼を言った。
 しかし座敷の引けないうちにすぐお染を帰す訳にはいかないから、ともかくも二人ながら座敷へ一旦戻って、酒の果てるまで機嫌よく遊んでいてくれと言った。
 お染は無論に承知した。男も承知した。二人はお雪に導かれて、再びもとの座敷へ戻ると、薄暗いところからはいって来たお染の眼に
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