女がどこからか現われた。
「御心配なさることはありません。あなたは休養のために二、三日の暇を貰うことにして、あなたの輿《こし》のなかへ家僕の死骸をのせて持ち出せば、誰も気がつく者はありますまい」
言われた通りにして、彼は家僕の死骸をひそかに運び出すと、あたかも軍門を通過する時に、その輿のなかからおびただしい血がどっ[#「どっ」に傍点]と流れ出したので、番兵らに怪しまれた。彼はひき戻されて取調べを受けると、その言うことも四度路《しどろ》で何が何やらちっとも判らない。楊公も怪しんで、試みに兵事を談じてみると、ただ茫然として答うるところを知らないという始末である。いよいよ怪しんで厳重に詮議すると、彼も遂に鏡の一条を打ちあけた。そうして先日来の議論はみな彼女が傍から教えてくれたのであることを白状した。
そこで、念のためにその鏡を取ろうとすると、鏡は大きいひびきを発してどこへか飛び去った。彼は獄につながれて死んだ。
韓氏の女
明《みん》の末のことである。
広州《こうしゅう》に兵乱があった後、周生《しゅうせい》という男が町へ行って一つの袴《こ》(腰から下へ着ける衣《きぬ》である)を買って来た。その丹《あか》い色が美しいので衣桁《いこう》の上にかけて置くと、夜ふけて彼が眠ろうとするときに、ひとりの美しい女が幃《とばり》をかかげて内を窺っているらしいので、周はおどろいて咎《とが》めると、女は低い声で答えた。
「わたくしはこの世の人ではありません」
周はいよいよ驚いて表へ逃げ出した。夜があけてから、近所の人びともその話を聞いて集まって来ると、女の声は袴のなかから洩れて出るのである。声は近いかと思えば遠く、遠いかと思えば近く、暫くして一個の美人のすがたが烟《けむ》りのようにあらわれた。
「わたくしは博羅《はくら》に住んでいた韓氏《かんし》の娘でございます。城が落ちたときに、賊のために囚《とら》われて辱《はず》かしめを受けようとしましたが、わたくしは死を決して争い、さんざんに賊を罵って殺されました。この袴は平生わたくしの身に着けていたものですから、たましいはこれに宿ってまいったのでございます。どうぞ不憫《ふびん》とおぼしめして、浄土へ往生の出来ますように仏事をお営みください」
女は言いさして泣き入った。人びとは哀れにも思い、また不思議にも思って、早速に衆僧をまねいて
前へ
次へ
全13ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング