んで来てくれた。それでも役人の不安はまだ去らないので、日の暮れ果てるのを待って、そっとうしろの戸をあけてあたりを窺うと、今夜は月の明るい宵で、そこらの壁のきわに何物かが累々《るいるい》と積み重ねてあるのが見える。よくよく透かして視ると、それはみな人間の鼻や耳であったので、役人は気が遠くなるほどに驚かされた。しかし容易に逃げ去るすべはあるまいと思われるので、ただおめおめと夜のあけるのを待っていると、彼は再び主人の男の前によび出された。男はやはりきのうの通りの姿で、彼にむかって言い渡した。
「あの金をおまえにやることは出来ない。しかしお前の迷惑にならないように、これをやる。持って帰って上官にみせろ」
 何か一枚の紙にかいた物をくれたので、役人は夢中でそれを受取ると、ひとりの男がまた彼を案内して、三日の後に元の場所まで送り帰してくれた。何がなんだか更にわからないので、役人はまだ夢をみているような心持で帰って来て、中丞にその次第を報告し、あわせてかの一紙をみせると、中丞は不思議そうに読んでいたが、たちまちにその顔色が変った。
 役人の妻子はすぐに人質をゆるされた。紛失の三千金もつぐなうには及ばぬと言い渡された。それで役人は大いに喜んだが、さてその一紙には何事がしるしてあったのか、その秘密はわからなかった。しかも後日になって、その書中には大略左のごときことが認《したた》めてあるのを洩れ聞いた。
 ――おまえは平生から官吏として賄賂をむさぼり、横領をほしいままにしている。その罪まことに重々である。就いては小役人などを責めて、償いの金を徴収するな。さもなければ、何月何日の夜半に、おまえの妻の髪の毛が何寸切られていたか、よく検《あらた》めてみろ――
 中丞が顔の色を変えて恐れたのも無理はなかった。彼の妻は、その通りに髪を切られていたのである。かの無名の偉丈夫は、いわゆる剣侠のたぐいであることを、役人は初めてさとった。

   鏡の恨み

 荊《けい》州の某家の忰は元来が放埒無頼《ほうらつぶらい》の人間であった。ある時、裏畑に土塀《どべい》を築こうとすると、その前の夜の夢に一人の美人が枕もとに現われた。
「わたくしは地下にあることすでに数百年に及びまして、神仙となるべき修煉《しゅうれん》がもう少しで成就するのでございます。ところが、明日おそろしい禍いが迫って参りまして、どうにも逃《の
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