今日《こんにち》わたくしがここへ呼び込まれましたのは、死んだ女がむかしの恨みを言おうがためでございましたろう」
言い終って、彼はまた泣いた。
その家では数百金をあたえて彼を帰してやった。そうして、その以後は神を祭らなくなったそうである。
雨夜の怪
後に尚書《しょうしょ》に立身した呂安老《りょあんろう》という人は、若いときに蔡《さい》州の学堂にはいっていた。ある日同じ寄宿舎にいる学生七、八人と夕方から宿舎をぬけ出して、そこらを遊びまわって、夜なかに帰って来ると、にわかに驟雨《しゅうう》がざっ[#「ざっ」に傍点]と降り出した。
かれらは雨具を持っていなかった。しかもこの当時は学堂の制度がはなはだ厳重で、無断外泊などは決して許されないので、かれらは引っ返して酒屋へ行って、単衣《ひとえ》の衾《よぎ》を借りた。その衾の四隅を竹でささえて、大勢がその下へはいって駈けて来ると、学堂の墻《かき》に近づいた頃に、夜廻りの者が松明《たいまつ》を持って、火の用心を呼びながら来たので、これに見付けられては大変だと思って、かれらは俄かに立ちすくんだ。双方相|距《さ》ること二十余歩、夜廻りの者は俄かに引っ返して、あとをも見ずに走り去ったので、かれらはその間に墻を乗り越えてはいったが、内心びくびくしていた。おそらく無断外出を夜廻りに見付けられて、譴責《けんせき》を受けるか、退学を命ぜられるかと、その夜は碌々眠られなかった。
その明くる日である。夜廻りの邏卒《らそつ》が府庁に出て申し立てた。
「昨夜の二更《にこう》、大雨の最中に、しかじかの処を廻って居りますと、忽ちに一つの怪物が北の方角から参りました。上は四角で平らで、蓆《むしろ》のようで、糢糊《もこ》として判りません。その下にはおよそ二、三十の足のような物がありまして、人のようにぞろぞろと歩いて参りまして、学校の墻のあたりへ来て消え失せました」
その報告におどろいた郡守以下の役人らは、それがいかなる怪物であるか、ほとんど想像が付かなかった。その噂がそれからそれへと拡まって、何か巨大な怪物がここらに出現するという風説が騒がしくなった。
町々では厄払いの道場を設けて、三昼夜の祈祷をおこない、その怪物の絵姿をかいて神社の前で磔刑《はりつけ》にした。
世の怪談にはこの類が少なくない。
術くらべ
鼎《てい》州の開元寺《かいげんじ》には寓居の客が多かった。ある夏の日に、その客の五、六人が寺の門前に出ていると、ひとりの女が水を汲みに来た。
客の一人は幻術をよくするので、たわむれに彼女を悩まそうとして、なにかの術をおこなうと、女の提げている水桶が動かなくなった。
「みなさん、御冗談をなすってはいけません」と、女は見かえった。
客は黙っていて術を解かなかった。暫くして女は言った。
「それでは術くらべだ」
彼女は荷《にな》いの棒を投げ出すと、それがたちまちに小さい蛇となった。客はふところから粉《こな》の固まりのような物を取り出して、地面に二十あまりの輪を描いて、自分はそのまん中に立った。蛇は進んで来たが、その輪にささえられて入ることが出来ない。それを見て、女は水をふくんで吹きかけると、蛇は以前よりも大きくなった。
「旦那、もう冗談はおやめなさい」と、彼女はまた言った。
客は自若《じじゃく》として答えなかった。蛇はたちまち突入して、第十五の輪まで進んで来た。女は再び水をふくんで吹きかけると、蛇は椽《たるき》のような大蛇となって、まん中の輪にはいった。ここで女は再びやめろと言ったが、客は肯《き》かなかった。蛇はとうとう客の足から身体にまき付いて、頭の上にまで登って行った。
往来の人も大勢立ちどまって見物する。寺の者もおどろいた。ある者は役所へ訴え出ようとすると女は笑った。
「心配することはありません」
その蛇を掴んで地に投げつけると、忽ち元の棒となった。彼女はまた笑った。
「おまえの術はまだ未熟だのに、なぜそんな事をするのだ。わたしだからいいが、他人に逢えばきっと殺される」
客は後悔してあやまった。彼は女の家へ付いて行って、その弟子になったという。
渡頭の妖
邵武《しょうぶ》の渓河《たにがわ》の北に怪しい男が棲んでいて、夜になると河ばたに出て来た。そうして徒渉《かちわた》りの者をみると、必ずそれを背負って南へ渡した。ある人がその子細を訊くと、彼は答えた。
「これは私の発願《ほつがん》で、別に子細はありません」
ここに黄敦立《こうとんりゅう》という胆勇の男があって、彼は何かの害をなす者であろうと疑った。そこで、試みに毎晩出てゆくと、かの男はいつものように彼を背負って渡った。三日の後、黄は彼に言った。
「人間の礼儀はお互いという。わたしはいつもお前に渡してもらうから、今夜は私がおまえを渡してあげよう」
男は辞退したが、黄は肯《き》かなかった。
無理に彼をいだいて河を渡ると、むこう岸には大きい石があった。黄はあらかじめ家僕《しもべ》に言い付けて、その石の上に草をたばねて置いたのである。黄は抱いている男を大石に叩きつけると、男は悲鳴をあげて助けを求めた。灯《ひ》に照らして見ると、彼は青面《せいめん》の大きい※[#「けものへん+矍」、206−13]猿《かくえん》に変じていた。打ち殺してそれを火に燔《や》くと、その臭気が数里にきこえた。
その後、ここに怪しいことはなかった。
底本:「中国怪奇小説集」光文社文庫、光文社
1994(平成6)年4月20日初版1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2003年7月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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