が軽々しく夢を信ずるということがありますか。こうして檀家の方々も見えているのに、和尚のあなたが、子細もなしに寺を捨てて立ち去ったなどとあっては、世間の信仰をうしなってしまいます。今は国ざかいも平穏で、女真《じょしん》のえびすなどが押し寄せて来るという警報もないのに、一刻を争って立ち退くには及びますまい」
 かれらの言うことに道理もあるので、講師はこころならずもひき留められて、かれらと共に供養の式を営み、あわせて法談を試むることになった。法談が終って、衆僧がみな午飯《ひるめし》を食いはじめると、たちまちに女真の兵がにわかに押し寄せて来たという警報を受取った。もちろん不意のことであるから、城はいっ時の後に攻め破られた。
 僧らもあわてて逃げ惑ったが、もう遅かった。城中の人と寺中の僧と、死んだ者の数はかの神の告げに符合していた。講師も身を全うすることが出来なかった。

   乞食の茶

 都の石氏《せきし》という家では茶肆《ちゃみせ》を開いて、幼い娘に店番をさせていた。
 ある時、その店へ気ちがいのような乞食が来た。垢《あか》だらけの顔をして、身には襤褸《ぼろ》をまとっているのである。彼は茶を飲ませてくれと言うと、娘はこころよく茶をすすめた。しかもその貧しいのを憫れんで銭《ぜに》を取らなかった。その以来、かの乞食は毎日ここへ茶を飲みに来ると、娘は特に佳い茶をこしらえてやった。
 それがひと月もつづいたので、父もそれを知って娘を叱った。
「あんな奴が毎日来ると、ほかの客の邪魔になる。今度来たら追い出してしまえ」
 それでも娘はやはり今までの通りにしているので、父はいよいよ怒って彼女を打《ぶ》つこともあった。そのうちに、かの乞食が来て、いつものように茶を飲みながら娘に言った。
「お前はわたしの飲みかけの茶を飲むか」
 これには娘もすこし困って、その茶碗の茶を土にこぼすと、たちまち一種不思議のよい匂いがしたので、彼女は怪しんでその残りを飲みほした。
「わたしは呂翁《りょおう》という者だ」と、乞食は言った。「おまえは縁がなくて、わたしの茶をみんな飲まなかったが、少し飲んでも福はある。富貴か、長寿か、おまえの望むところを言ってみろ」
 娘は小商人《こあきんど》の子に生まれ、しかもまだ小娘であるので、富貴などということはよく知らなかった。そこで、彼女は長寿を望むと答えると、乞食はうなずいて立ち去った。親たちもそれを聞いて今更のように驚いたが、乞食はもう再び姿をみせなかった。
 娘は生長して管営指揮使の妻となり、のちに呉《ご》の燕王《えんおう》の孫娘の乳母となって、百二十歳の寿を保った。

   小龍

 宗立本《そうりゅうほん》は登《とう》州|黄《こう》県の人で、父祖の代から行商を営《いとな》んでいたが、年の長《た》けるまで子がなかった。宋の紹興二十八年の夏、帛《きぬ》のたぐいを売りながら、妻と共に※[#「さんずい+維」、第3水準1−87−26]《い》州を廻って、これから昌楽《しょうらく》へ行こうとする途中、日が暮れて路ばたの古い廟に宿った。数人の従者は柝《き》を撃って、夜もすがらその荷物を守っていた。
 夜があけて出発すると、六、七歳の男の児が来てその前にひざまずいた。見るから利口そうな小児である。宗は立ちどまって、お前はどこの子かとたずねると、彼ははきはきと答えた。
「わたくしは武昌《ぶしょう》の公吏の子で、父は王忠彦《おうちゅうげん》と申しました。運悪く両親に死に別れて、他人の手に育てられていましたが、ここへ来る途中で捨てられました」
 宗は憐れんで彼を養うことにして、その名を神授《しんじゅ》と呼ばせた。神授は見た通りの賢い生まれつきで、書物を読めばすぐに記憶するばかりか、大きい筆を握ってよく大字をかいた。篆書《てんしょ》でも隷書《れいしょ》でも草書《そうしょ》でも、学ばずして見事に書くので、見る人みな驚嘆せざるはなかった。宗はもとより大資本の商人でもないので、しまいには自分の商売をやめて、神授を連れて諸方を遊歴し、その字を売り物にして生活するようになった。
 それからのち二年の春、宗は小児を連れて済南《さいなん》の章丘《しょうきゅう》へゆくと、路で胡服《こふく》をきた一人の僧に逢った。僧は容貌魁偉《ようぼうかいい》ともいうべき人で、宗にむかって突然に訊いた。
「おまえはこの子をどこから拾って来た」
「これはわたしの実の子です」と、宗は答えた。「飛んでもないことをお言いなさるな」
「いや、おまえの子ではない筈だ」と、僧は笑いながら言った。「これは私の住んでいる五台山の龍《りゅう》だ。五百の小龍のうちで其の一つが行くえ不明になったので、三年前から探していたのだ。お前の手もとに長くとどめて置くと、きっと大いなる禍いを受けることになる。わたしが
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