怒って、門を叩き破って踏み込むと、前に言ったような始末であるので、彼はいよいよ怒った。
「なんで夫の着物を破ってしまったのだ」
 その返事の代りに、妻は夫にむしり付いた。そうして、今度はその着ている物をむやみに引き裂くばかりか、顔を引っ掻く、手に食いつくという大乱暴に、陳もほとほと持て余していると、その騒動を聞きつけて、近所の人や往来の者がみな門口《かどぐち》にあつまって来た。そのなかに※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]居士《かくこじ》という人があった。かれは邪を攘《はら》い、魔を降《くだ》すの術をよく知っていた。
 居士は表から女の泣き声を聞いて、あたりの人にささやいた。
「あれは人間ではない。山に棲む獣《けもの》に相違ない」
 それを陳に教えた者があったので、陳は早速に居士を招じ入れると、妻はその姿をみて俄かに懼れた。居士は一紙の墨符《ぼくふ》を書いて、空《くう》にむかってなげうつと、妻はひと声高く叫んで、屋根|瓦《がわら》の上に飛びあがった。居士はつづいて一紙の丹符《たんぷ》をかいて投げつけると、妻は屋根から転げ落ちて死んだ。それは一匹の猿であった。
 その後、別に何の祟りもなかったが、陳はあまりの不思議に渭南をたずねて、果たしてそこに劉という家があるかと聞き合わせると、その家は郊外にあった。主人の劉は陳に向ってこんな話をした。
「わたしはかつて弋陽《よくよう》の尉《じょう》を勤めていたことがあります。その土地には猿が多いので、わたしの家にも一匹を飼っていました。それから十年ほど経って、友達が一匹の黒い犬を持って来てくれたので、これも一緒に飼っておくと、なにぶんにも犬と猿とは仲が悪く、猿は犬に咬《か》まれて何処へか逃げて行ってしまいました」

   李生の罪

 唐の貞元年中に、李生《りせい》という者が河朔《かさく》のあいだに住んでいた。少しく力量がある上に、侠客肌の男であるので、常に軽薄少年らの仲間にはいって、人もなげにそこらを横行していた。しかも二十歳《はたち》を越える頃から、俄かにこころを改めて読書をはげみ、歌詩をも巧みに作るようになった。
 それから追いおいに立身して、深《しん》州の録事参軍《ろくじさんぐん》となったが、風采も立派であり、談話も巧みであり、酒も飲み、鞠《まり》も蹴る。それで職務にかけては廉直《れんちょく》というのであるから申し分がない。州の太守も彼を認めて、将来は大いに登庸《とうよう》しようとも思っていた。
 その頃、成徳《せいとく》軍の帥《そつ》に王武俊《おうぶしゅん》という大将があった。功を恃《たの》んで威勢を振うので、付近の郡守はみな彼を恐れていると、ある時その子の士真《ししん》をつかわして、付近の各州を巡検させることになって、この深州へも廻って来た。深州の太守も王を恐れている一人であるので、その子の士真に対しても出来るだけの敬意を表して歓待した。しかし迂闊《うかつ》な者を酒宴の席に侍らせて、酒の上から彼の感情を害すような事があってはならないという遠慮から、すべての者を遠ざけて、酒席の取持ちは太守一人が受持つことにした。それが士真の気にかなって、さすがに用意至れり尽くせりと喜んでいたが、昼から夜まで飲み続けているうちに、太守ひとりでは持ち切れなくなって来た。士真の方でも誰か変った相手が欲しくなった。
「今夜は格別のおもてなしに預かって、わたしも満足した。しかしあなたと二人ぎりでは余りに寂しい。誰か相客《あいきゃく》を呼んで下さらんか」
「何分にもこの通りの偏土《へんど》でござりまして……」と、太守は答えた。「お相手になるような者が居りません。しいて探しますれば、録事参軍の李と申すものが、何か少しはお話が出来るかとも存じますが……」
 それを呼んでくれというので、李はすぐに召出された。そうして、酒の席へ出て来ると、士真の顔色は俄かに変った。李は行儀正しく坐に着くと、士真の機嫌はいよいよ悪くなった。太守も不思議に思って、ひそかに李の方をみかえると、彼も色蒼ざめて、杯を執《と》ることも出来ないほどに顫《ふる》えているのである。やがて士真は声を※[#「がんだれ+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》しゅうして、自分の家来に指図した。
「あいつを縛って獄屋につなげ」
 李は素直に引っ立てられて去ると、士真の顔色はまたやわらいで、今まで通りに機嫌よく笑いながら酒宴を終った。太守はそれで先ずほっとしたが、一体どういうわけであるのか、それがちっとも判らないので、獄中に人をつかわしてひそかに李にたずねさせた。
「お前の礼儀正しいのは、わたしもふだんから知っている。殊に今夜はなんの落度もなかったように思われる。それがどうして王君の怒りに触れたのか判らない。お前に何か思い当ることがあるか」
 李はし
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