た。
 やがて夜の初更《しょこう》(午後七時―九時)とおぼしき頃に、家の外から小児《こども》の呼ぶ声がきこえた。
「阿香《あこう》」
 それは女の名であるらしく、振り返って返事をすると、外ではまた言った。
「おまえに御用がある。雷車《らいしゃ》を推せという仰せだ」
「はい、はい」
 外の声はそれぎりで止むと、女は周にむかって言った。
「折角《せっかく》お泊まり下すっても、おかまい申すことも出来ません。わたくしは急用が起りましたので、すぐに行ってまいります」
 女は早々に出て行った。雷車を推せとはどういう事であろうと、周は従者らと噂をしていると、やがて夜半から大雷雨になったので、三人は顔をみあわせた。
 雷雨は暁け方にやむと、つづいて女は帰って来たので、彼女がいよいよ唯者《ただもの》でないことを三人は覚《さと》った。鄭重《ていちょう》に礼をのべて、彼女にわかれて、門を出てから見かえると、女のすがたも草の家も忽ち跡なく消えうせて、そこには新しい塚があるばかりであったので、三人は又もや顔を見あわせた。
 それにつけても、彼女が「臨賀までは遠い」と言ったのはどういう意味であるか、かれらにも判らなかった。しかも幾年の後に、その謎の解ける時節が来た。周は立身して臨賀の太守となったのである。

   武陵桃林

 東晋《とうしん》の太元《たいげん》年中に武陵《ぶりょう》の黄道真《こうどうしん》という漁人《ぎょじん》が魚を捕りに出て、渓川《たにがわ》に沿うて漕いで行くうちに、どのくらい深入りをしたか知らないが、たちまち桃の林を見いだした。
 桃の花は岸を挟んで一面に紅く咲きみだれていて、ほとんど他の雑木はなかった。黄は不思議に思って、なおも奥ふかく進んでゆくと、桃の林の尽くるところに、川の水源《みなもと》がある。そこには一つの山があって、山には小さい洞《ほら》がある。洞の奥からは光りが洩れる。彼は舟から上がって、その洞穴の門をくぐってゆくと、初めのうちは甚だ狭く、わずかに一人を通ずるくらいであったが、また行くこと数十歩にして俄かに眼さきは広くなった。
 そこには立派な家屋もあれば、よい田畑もあり、桑もあれば竹もある。路も縦横に開けて、※[#「鷄」の「鳥」に代えて「隹」、第3水準1−93−66]《とり》や犬の声もきこえる。そこらを往来している男も女も、衣服はみな他国人のような姿である
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