それでは、あなたの姓名はなんというのですか」
「おれの名をきいてどうするのだ」
「ぜひ教えてください」
「忌《いや》だ、いやだ」
 なにを言っても取り合わない。そのうちに彼の家はだんだん近くなったので、怪物は悲しげに言った。
「わたしを赦してもくれず、また自分の姓名を教えてもくれない以上は、もうどうにも仕様がない。わたしもむなしく殺されるばかりだ」
 王は自分のうちへ帰って、すぐにその怪物を籠と共に焚いてしまったが、寂《せき》としてなんの声もなかった。土地の人はこのたぐいの怪物を山※[#「操」の「てへん」に代えて「けものへん」、第4水準2−80−51]《さんそう》と呼んでいるのである。かれらは人の姓名を知ると、不思議にその人を傷つけることが出来ると伝えられている。怪物がしきりに王の姓名を聞こうとしたのも、彼を害して逃がれようとしたものらしい。

   熊の母

 東晋《とうしん》の升平《しょうへい》年間に、ある人が山奥へ虎を射に行くと、あやまって一つの穴に堕《お》ちた。穴の底は非常に深く、内には数頭の仔熊が遊んでいた。
 さては熊の穴へはいったかと思ったが、穴が深いので出ることが出来ない。そのうちに一頭の大きい熊が外から戻って来たので、しょせん助からないと覚悟していると、熊はしまってある果物《くだもの》を取り出してまず仔熊にあたえた。それから又、一人分の果物を出して彼の前に置いた。彼はひどく腹が空いているので、怖ろしいのも忘れてそれを食った。
 熊は別に害を加えようとする様子もないので、彼もだんだんに安心して来た。熊は仔熊の母であることも判った。親熊は毎日外へ出ると、かならず果物を拾って帰って、仔熊にもあたえ、彼にも分けてくれた。それで彼は幸いに餓死をまぬかれていたが、日数を経るうちに仔熊もおいおい生長したので、親熊は一々にそれを背負って穴の外へ運び出した。
 自分ひとりが取り残されたら、いよいよ餓死することと観念していると、仔熊を残らず運び終った後に、親熊はまた引っ返して来て、人の前に坐った。彼はその意を覚って、その足に抱きつくと、熊は彼をかかえたままで穴の外へ跳り出した。こうして、彼は無事に生き還ったのである。

   烏龍

 会稽《かいけい》の句章《こうしょう》の民、張然《ちょうぜん》という男は都の夫役《ぶやく》に徴《め》されて、年を経るまで帰ることが出来な
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