って手をさしのべ、衾の上からしずかにかの男を撫《な》でていると、その形は次第に薄く且《か》つ消えてしまった。
 夫婦も奴僕も言い知れない恐怖に囚《とら》われていると、それから間もなく、その夫は一種の病いにかかって、物の理屈も判らないようなぼんやりした人間になった。

   狐の手帳

 呉《ご》郡の顧旃《こせん》が猟《かり》に出て、一つの高い岡にのぼると、どこかで突然に人の声がきこえた。
「ああ、ことしは駄目だ」
 こんなところに誰か忍んでいるのかと怪しんで、彼は連れの者どもと共にそこらを探してあるくと、岡の上に一つの穽《あな》があって、それは古塚の頽《くず》れたものであるらしかった。
 その穽の中には一匹の古狐が坐って、何かの一巻を読んでいたので、すぐに猟犬を放してそれを咬み殺させた。それから狐の読んでいたものを検《あらた》めると、それには大勢の女の名を書きならべて、ある者には朱で鈎《かぎ》を引いてあった。察するに、妖狐が種々に形を変じて、容貌《きりょう》のいい女子《おなご》を犯していたもので、朱の鈎を引いてあるのは、すでにその目的を達したものであろう。
 女の名は百余人の多きにのぼって、顧旃のむすめの名もそのうちに記《しる》されていたが、幸いにまだ朱を引いていなかった。

   雷を罵る

 呉興《ごこう》の章苟《しょうこう》という男が五月の頃に田を耕しに出た。かれは真菰《まこも》に餅をつつんで来て、毎夕の食い物にしていたが、それがしばしば紛失するので、あるときそっと窺っていると、一匹の大きい蛇が忍び寄って偸《ぬす》み食らうのであった。彼は大いに怒って、長柄の鎌をもって切り付けると、蛇は傷ついて走った。
 彼はなおも追ってゆくと、ある坂の下に穴があって、蛇はそこへ逃げ込んだ。おのれどうしてくれようかと思案していると、穴のなかでは泣き声がきこえた。
「あいつがおれを切りゃあがった」
「あいつどうしてやろう」
「かみなりに頼んで撃ち殺させようか」
 そんな相談をしているかと思うと、たちまちに空が暗くなって、彼のあたまの上に雷《らい》の音が近づいて来た。しかも彼は頑強の男であるので、跳《おど》りあがって大いに罵《ののし》った。
「天がおれを貧乏な人間にこしらえたから、よんどころなしに毎日あくせくと働いているのだ。その命の綱の食い物をぬすむような奴を、切ったのがどうした
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