お妙は先《ま》ず草鞋を片付け、更においよが汲んで来りし桶を受取りて、弥三郎の足を洗わせる。)
弥三郎 稽古の娘たちは帰ったか。
お妙 先刻《さっき》もう帰りました。
弥三郎 あの娘たちも狼の噂に怯えていると見えるな。それも無理のないことだ。
(この話のうちに、弥三郎は足を洗い終りて、炉のまえに坐る。炉の火は次第に燃えあがる。お妙は井戸ばたへ水を捨てに行き、おいよは茶碗に湯をついで弥三郎にすすめる。)
おいよ すぐに御飯をあがりますか。
弥三郎 いや、待ってくれ。おれは又すぐに出なければならないのだ。
おいよ どこへお出でなさる……。
弥三郎 今そこで村の八蔵に出逢ったら、庄屋殿の宅に寄合があるから、直ぐに来てくれというのだ。
おいよ では又、狼狩の相談でござりますか。
弥三郎 (うなずく。)むむ、その相談だ。このあいだから二度までも狼狩を催したが、遂にその姿を見付けることが出来ない。と云って、このままに捨てて置いては、村方一同の難儀になるので、もう一度何とか相談して、今度こそはどうでもその狼めを退治しようと云うのだ。この村に狩人渡世をしている者は、おれのほかに三人あるが、そのなかでもおれは浪人、以前は武士であるというので、こういう時には大将分に押立てられて、何かの采配を振らねばならない。まったく一匹の獣《けもの》のために、諸人が難儀するというのは残念なことだ。なんとか工夫して退治したいと思うのだが……。
おいよ どなたも色々の御心配、お察し申します。
弥三郎 ところで、ここに又ひとつの評議がある。出没自在の狼を人間の力で退治することは覚束ない。いっそ神の力を借りようというのだ。
おいよ 神の力を借りるとは……。どうするのでござります。
弥三郎 おまえも知っている通り、ホルトガルの伴天連《バテレン》が長崎から天草へ渡り、天草から又ここらへ渡って来て、このあいだから切支丹の教えを弘めている。その教えがよいか悪いか、おれにはまだ本当に呑み込めないが、ここらでも信仰している者が随分あるらしい。その信者たちの発議で、切支丹の伴天連をたのみ、狼退治の祈祷をして貰おうというのだ。
おいよ 切支丹の教えの尊いことも、その伴天連のありがたいことも、かねて聴いていましたが……。(考えて。)おまえもそれに同意なさるのでござりますか。
弥三郎 さあ、同意というでもないが、押切って反対もしな
前へ
次へ
全25ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング