おいよは矢はり俯向いている。正吉は火を焚きつけて、湯を沸かす支度にかかる。)
モウロ (重ねて。)あなたは運の悪い人ですか。それとも罪のある人ですか。(おいよの顔をじっと見て。)あなたは何かの罪を犯しましたか。先日も申した通り、罪のあるものは……。(聖母を指さす。)神様の前で懺悔をしなければなりません。
おいよ はい。
モウロ さあ。お話しなさい。(立って、頚にかけたる十字架をわが額にかざす。)神様は聴いておいでになります。わたくしも聴きます。
おいよ は、はい。
(おいよは床几を離れて土間にひざまずき、一種の恐怖に打たれるように身を顫《ふる》わせる。)
モウロ これからあなたがどんな話をなされても、わたくしは決して他人には洩らしません。それは神様の前で誓います。どんな秘密でも、どんな怖ろしいことでも、包み隠さずにお話しなさい。あなたは何かの罪を犯した覚えがありますか。
おいよ はい。(又もや身をふるわせる。)わたくしは……口へ出すのも怖ろしいような大罪を犯しているのでござります。
モウロ (しずかに。)どんなことですか。
おいよ わたくしは人を殺しました。
モウロ 人を殺しましたか。
おいよ (いよいよ声を顫わせる。)はい。人を殺しました。人の生血を啜《すす》りました……。人の肉を喰いました……。わたくしは人間ではござりません。獣でござります。狼でござります。(泣く。)
モウロ あなたは人を殺して……。狼のように、その血を啜りましたか。その肉を喰いましたか。
おいよ はい。一人《ひとり》ならず、七人までも喰い殺しました。わたくしには獣のたましいが乗憑《のりうつ》っているのでござります。こうして女の姿はして居りますが、わたくしの心は怖ろしい狼になって仕舞ったのでござります。(堪えざるように泣き頽《くず》れる。)
(モウロは進み寄って、おいよを抱き起す。正吉も立寄れば、モウロは近寄るなと眼で知らせる。)
モウロ これは大事の懺悔です。こころを落付けてよくお話しなさい。あなたはどうして狼のような心になりましたか。
おいよ それには先ずわたくしの身の上からお話し申さなければなりません。わたくしの夫は田原弥三郎と申しまして、以前は秋月家に仕えた侍でござりましたが、八年以前に仔細あって浪人いたしまして、お妙という妹と妻のわたくしと……。まだ申上げませんでしたが、わたくしの名は
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