かされた。
 今から三百年ほどの昔であろう。清《しん》の太祖が遼東一帯の地を斬り従えて、瀋陽《しんよう》――今の奉天――に都を建てた当時のことである。かずある侍妾《じしょう》のうちに姜氏《きょうし》といううるわしい女があって、特に太祖の恩寵を蒙っていたので、それを妬《ねた》むものが彼女に不貞のおこないがあると言い触らした。その相手は太祖の近臣で楊という美少年であった。それが太祖の耳に入って、姜氏と楊とは残酷な拷問をうけた。妬む者の讒言《ざんげん》か、それとも本当に覚えのあることか、その噂《うわさ》はまちまちでいずれとも決定しなかったが、ともかくも二人は有罪と決められて、楊は死罪に行なわれた。姜氏は大雪のふる夕、赤裸にして手足を縛られて、生きながらに渾河《こんが》の流れへ投げ込まれた。
 この悲惨な出来事があって以来、大雪のふる夜には、妖麗な白い女の姿が吹雪の中へまぼろしのように現われて、それに出逢うものは命を亡《うしな》うのである。そればかりでなく、その白い影は折りおりに人家へも忍び込んで来て、若い娘を招き去るのである。招かれた娘のゆくえは判らない。彼女は姜氏の幽魂に導かれて、おなじ渾河の水底へ押し沈められてしまうのであると、土地の者は恐れおののいている。その伝説は長く消えないで、渾河地方の雪の夜には妖麗幽怪な姑娘の物語が今もやはり繰返されているのである。現にここの家でも三年前、ちょうど今夜のような吹雪の夜に、十三になる姉娘を誘い出された怖ろしい経験をもっているので、おとといの晩もゆうべも、一家内は安き心もなかった。幸いにきょうは雪もやんだので、まずほっとしていると、夕方からまたもやこんな烈しい吹雪となったので、風にゆられる戸の音にも、天井を走る鼠の音にも、父の老人は弱い魂をおびやかされているのであった。
「ふうむ、どうも不思議だね。」と、堀部君はその奇怪な説明に耳をかたむけた。「じゃあ、ここの家ではかつて娘を取られたことがあるんだね。」
「そうです。」と、李太郎が怖ろしそうに言った。「姉も十三で取られました。妹もことし十三になります。また取られるかも知れません。」
「だって、その雪女はここの家ばかり狙うわけじゃあるまい。近所にも若い娘はたくさんいるだろう。」
「しかし美しい娘、たくさんありません。ここの家の娘、たいそう美しい。わたくし今、見て来ました。」
「そうすると、美しい娘ばかり狙うのか。」
「美しい娘、雪の姑娘に妬まれます。」
「けしからんね。」と、堀部君は蝋燭の火を見つめながら言った。「美しい娘ばかり狙うというのは、まるで我れわれのような幽霊だ。」
 李太郎はにっこりともしなかった。彼もこの奇怪な伝説に対して、すこぶる根強い迷信をもっているらしいので、堀部君はおかしくなって来た。
「で、昔からその白い女の正体をたしかに見届けた者はないんだね。」
「いいえ、見た者たくさんあります。あの雪の中に……。」と、李太郎は見えない表を指さした。「白い影のようなものが迷っています。そばへ近寄ったものはみな死にます。」
「それ以上のことは判らないんだね。で、その影のようなものは、戸が閉めてあっても、すう[#「すう」に傍点]とはいって来るのか。」
「はいって来るときには、怖ろしい音がして戸がこわれます。戸を閉めて防ぐこと出来ません。」
「そうか。」と、堀部君は思わず声を立てて笑い出した。
 日本語の判らない老人は、びっくりしたように客の笑い顔をみあげた。李太郎も眼をみはって堀部君の顔を見つめていた。
「ここらにも馬賊はいるだろう。」と、堀部君は訊いた。
「馬賊《マーツェ》、おります。」と、李太郎はうなずいた。
「それだよ。きっとそれだよ。」と、堀部君はやはり笑いながら言った。「馬賊にも限るまいが、とにかくに泥坊の仕業だよ。むかしからそんな伝説のあるのを利用して、白い女に化けて来るんだよ。つまり幽霊の真似をして方々の若い娘をさらって行くのさ。その行くえの判らないというのは、どこか遠いところへ連れて行って、淫売婦か何かに売り飛ばしてしまうからだろう。美しい娘にかぎってさらわれるというのが論より証拠だ。ねえ、そうじゃないか。」
「そうでありましょうか。」と、李太郎はまだ不得心らしい眼色を見せていた。
「お前からここの主人によく話してやれよ。それは渾河に投げ込まれた女の幽霊でもなんでもない。たしかに人間の仕業に相違ない。たしかに泥坊の仕業で、幽霊のふりをして若い娘をさらって行くのだと……。いや、まったくそれに相違ないよ。昔は本当に幽霊が出たかも知れないが、中華民国の今日にそんなものが出るはずがない。幽霊がはいって来るときに、戸がこわれるというのも一つの証拠だ。何かの道具で叩きこわしてはいって来るのさ、ねえ、そうじゃあないか。ほんとうの幽霊なら
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