渋っていたが、僕があくまでも斬り込んで詮議するので、彼もとうとう包み切れないでその事情をくわしく教えてくれた。
 この春、赤座が僕に話した通り、彼は妻を迎えようとしても適当な女が見あたらない。妹も兄が妻帯するまでは他へ嫁入りするのを見あわせて、兄の世話をしているという決心であった。こうして、兄妹は仲よく暮らしていた。そのうちに、町の或る銀行に勤めている内田という男がやはりおなじ信者である関係から、伊佐子を自分の妻に貰いたいと申込んだが、赤座はその人物をあまり好まなかったとみえて体《てい》よく断った。内田はそれでも思い切れないで、さらに直接伊佐子に交渉したが、伊佐子も同じく断った。
 兄にも妹にも撥《は》ね付けられて、内田は失望した。その失望から彼は根もないことを捏造《ねつぞう》して、赤座兄妹を傷つけようと企《たく》らんだ。彼は土地の新聞社に知人があるのを幸いに、○○教の講師兄妹のあいだに不倫の関係があるということをまことしやかに報告した。妹が年頃になっても他へ縁付かないのはそのためであると言った。おなじ信徒の報告であるから新聞社の方でもうっかり信用して、その記事を麗々しく掲げたので、たちまち土地の大評判になった。
 信徒の多数はそれを信じなかったが、ともかくもこんな噂を伝えられるということは非常な迷惑であった。ひいては布教の上にも直接間接の影響をあたえるのは判り切っていた。支社の方では新聞社に交渉して、まずその記事の出所を確かめようとしたが、これは新聞の習いとして原稿の出所を明白に説明することを拒《こば》んだ。事実が相違しているならば、取消しは出すと言った。
 それから幾日かの後に、その新聞紙上に五、六行の取消し記事が掲載されたが、そんな形式的の事では赤座は満足できなかった。しかし彼は決して人を怨まなかった。彼はそれを自分の信ずる神の罰だと思った。自分の信仰が至らないために○○教の神から大いなる刑罰を下されたのであると信じていた。彼は堪えがたい恐懼《きょうく》と煩悶とにひと月あまりをかさねた末に、彼は更に最後の審判をうけるべく怖ろしい決心を固めた。
 彼はいつも神前に礼拝する時に着用する白い狩衣《かりぎぬ》のようなものを身につけて、それに石油をしたたかに注ぎかけておいて、社の広庭のまん中に突っ立って、自分で自分のからだにマッチの火をすり付けたのであった。聞いただけでも実に身の毛のよだつ話で、彼はたちまち一面の火焔に包まれてしまった。それを見つけて妹の伊佐子が駈け付けた時はもう遅かった。それでも何とかして揉み消そうと思ったのか、あるいは咄嗟《とっさ》のあいだに何かの決心を据えたのか、伊佐子は燃えている兄のからだを抱えたままで一緒に倒れた。
 他の人々がおどろいて駈けつけた時はいよいよ遅かった。兄はもう焼けただれて息がなかった。妹は全身に大火傷《おおやけど》を負って虫の息であった。すぐに医師を呼んで応急手当を加えた上で、ともかくも町の病院へかつぎ込んだが、伊佐子はそれから四時間の後に死んだ。
 その凄惨の出来事は前の記事以上に世間をおどろかして、赤座の死因についてはいろいろの想像説が伝えられたが、所詮《しょせん》はかの新聞記事が敬虔《けいけん》なる○○教の講師を殺したということに世間の評判が一致したので、新聞社でもさすがにその軽率を悔んで、半ば謝罪的に講師兄妹の死を悼むような記事を掲げた。それと同時におそらくその社のある者が洩らしたのであろう。かの新聞記事は内田の投書であるという噂がまた世間に伝えられたので、彼も土地にはいたたまれなくなったらしく、自分の勤めている銀行には無断で、一週間ほど以前にどこへか姿を隠した。
「その内田という男の居処はまだ知れませんか。」と、僕は訊いた。
「知れません。」と、それを話した世話役は答えた。「銀行の方には別に不都合はなかったようですから、まったく世間の評判が怖ろしかったのであろうと思われます。」
「内田はいくつぐらいの男ですか。」
「二十八九です。」
「家出をした時には、どんな服装をしていたか判りませんか。」と、僕はまた訊いた。
「銀行から家へ帰らずに、すぐに東京行きの汽車に乗り込んだらしいのですが、銀行を出た時には鼠色の洋服を着て、中折帽子をかぶっていたそうです。」
 僕の総身《そうみ》は氷のように冷たくなった。

「そうすると、妙義へ君をたずねて行ったのは、その内田という男なのかね。」
 青蛙堂の主人はその話のとぎれるのを待ちかねたようにたずねると、第三の男は大きい溜息をつきながらうなずいた。
「そうだ。僕の話を聴いて、彼の親戚と銀行の者とが僕と一緒に妙義へ来てみると、蝋燭谷の谷底に横たわっていた死体は、たしかに内田に相違ないということが判った。しかし彼がなぜ僕をたずねて来たのか、それは誰にも判らない。僕にも無論わからなかった。それが怖ろしい秘密だよ。赤座兄妹の身の上にそんな変事があろうとは僕は夢にも知らないでいた。そこへ赤座――僕の眼には確かにそう見えた――が不意にたずねて来た。しかもそれは赤座自身ではない、却って赤座の仇《かたき》であって、原因不明の変死を遂げてしまった。その秘密を君はどう解釈するかね。」
「兄妹の魂がかれを誘い出して来たとでもいうのかね。」と、主人は考えながら言った。
「まずそうだ。僕もそう解釈していた。それにしても、赤座は僕に一度逢いたいので、そのたましいが彼のからだに乗りうつって来たのか。あるいは自分たちの死を報告するために、彼を使いによこしたのか。内田という男がどうして僕の居どころを知っていたのか。僕にはどうもはっきり判らないので、その後もいろいろの学者たちに逢ってその説明を求めたが、どの人も僕に十分の満足をあたえるほどの解答を示してくれない。
 しかし大体の意見はこういうことに一致しているらしい。すなわち内田という人間は一種の自己催眠にかかって、そういう不思議の行動を取ったのであろう、というのだ。内田は一旦の出来ごころで、赤座の兄妹を傷つけようと企てたが、その結果が予想以上に大きくなって、兄妹があまりに物凄い死に方をしたので、彼も急におそろしくなった。彼もおなじ宗教の信者であるだけに、いよいよその罪をおそろしく感じたかも知れない。そうして、兄妹の怨恨がかならず自分の上に報《むく》って来るというようなことを強く信じていたかも知れない。その結果、彼は赤座に導かれたような心持になって、ふらふらと僕をたずねて来た。彼がどうして僕の居処を知っていたかというのは、おなじ信者ではあり、且《かつ》は妹に結婚を申込むくらいの間柄であるから、赤座の家へも親しく出入りをしていて、僕が妙義の宿からたびたび送った絵葉書を見たことがあるかも知れない。僕が赤座の親友であることを知っていたかも知れない。自己催眠にかかった彼は赤座に導かれて赤座の親友をたずねるつもりで、妙義の山までわざわざ来たのだろう。
 ――と、こういうことになっているんだが、僕は催眠術をくわしく研究していないから、果してどうだか判らない。外国へ行ったときに心霊専門に研究している学者たちにも訊いてみたが、その意見はまちまちで、やはり正確な判断を下すまでに至らなかったのは残念だ。しかし学者の意見はどうであろうとも、実際、かの内田が自己催眠に罹《かか》っていたにしても――僕の眼にそれが赤座の姿と見えたのはどういう訳だろう。あるいは自己催眠の結果、内田自身ももう赤座になり澄ましたような心持になって、言語動作から風采までが自然に赤座に似て来たのだろうか。それとも僕もその当時、一種の催眠術にかかっていたのだろうか。」
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   猿《さる》の眼《め》


     一

 第四の女は語る。

 わたくしは文久《ぶんきゅう》元年|酉歳《とりどし》の生れでございますから、当年は六十五になります。江戸が瓦解《がかい》になりました明治元年が八つの年で、吉原の切解《きりほど》きが明治五年の十月、わたくしが十二の冬でございました。御承知でもございましょうが、この年の十一月に暦《こよみ》が変りまして、十二月三日が正月元日となったのでございます。いえ、どうも年をとりますとお話がくどくなってなりません。前置きはまずこのくらいに致しまして、本文《ほんもん》に取りかかりましょう。まことに下《くだ》らない話で、みなさまがたの前で子細らしく申上げるようなことではないのでございますが、席順が丁度わたくしの番に廻ってまいりましたので、ほんの申訳ばかりにお話をいたしますのですから、どうぞお笑いなくお聴きください。
 まことにお恥かしいことでございますが、その頃わたくしの家は吉原の廓内《くるわうち》にありまして、引手《ひきて》茶屋を商売にいたしておりました。江戸の昔には、吉原の妓楼《ぎろう》や引手茶屋の主人にもなかなか風流人がございまして、俳諧をやったり書画をいじくったりして、いわゆる文人墨客《ぶんじんぼっかく》というような人たちとお附合いをしたものでございます。わたくしの祖父や父もまずそのお仲間でございまして、歌麿のかいた屏風だとか、抱一《ほういつ》上人のかいた掛軸だとかいうようなものが沢山《たくさん》にしまってありました。
 祖父はわたくしが三つの年に歿しまして、明治元年、江戸が東京と変りましたときには、当主の父は三十二で、名は市兵衛と申しました。それが代々の主人の名だそうでございます。なにしろ急に世の中が引っくり返ったような騒ぎですから、世間一統がひどい不景気で、芝居町や吉原やすべての遊び場所がみんな火の消えたような始末。おまけに新富町には新島原の廓が新しく出来ましたので、その方へお客を引かれる。わたくしの父なぞは、いっそもう商売をやめてしまおうかなぞと言ったくらいでしたが、母や同商売の人にも意見されて、もう少し世の成行きを見ていようといううちに、京橋のまん中に遊廓なぞを置くのはよくないというので、新島原は間もなくお取潰しになりまして、妓楼はみんな吉原へ移されることになりました。
 これで少しは息がつけるかと思っていると、明治五年には前に申した通りの切解きで……。今までの遊女や芸妓は人身売買であるからよろしくないというので、一度にみんな解放を命ぜられました。こんにちでは娼妓《しょうぎ》解放と申しますが、そのころは普通一般に切解きと申しておりました。さあ、これがまた大変で、早くいえば吉原の廓がぶっ潰されるような大騒ぎでございました。
 しかしその時代のことですから、何事もお上《かみ》のお指図次第で、だれも苦情の申しようはございません。勿論、それで吉原が潰れっ切りになったわけではなく、ふたたび備えを立て直して相変らず商売をつづけて行くことになったのですが、前々から廃業したいという下心《したごころ》があったところへ、こんな騒ぎがまたもや出来《しゅったい》したので、父の市兵衛はいよいよ見切りを付けまして、百何十年もつづけて来た商売をとうとうやめることに決心しました。さりとて不馴れの商売なぞをうっかり始めるのは不安心で、士族の商法という生きた手本がたくさんありますから、田町《たまち》と今戸《いまど》辺に五、六軒の家作があるのを頼りに、小体《こてい》のしもた家暮らしをすることになりました。
 父は若いときから俳諧が好きでして、下手か上手か知りませんが、三代目夜雪庵の門人で羅香と呼んでおりまして、すでに立机《りゅうぎ》の披露も済ませているのですから、曲りなりにも宗匠格でございます。そこでこの場合、自分の好きな道にゆっくり遊びたいというのと、二つには芸が身を助けるというような意味もまじって、俳諧の宗匠として世を渡ることにしましたが、今までとは違って小さい家へ引籠るのですから、余計な荷物の置きどころがないのと、邪魔なものは売払ってお金にしておく方がいいというので、不用のがらくたは勿論のこと、祖父の代から集めていました、書画や骨董のたぐいも大抵売払ってしまいました。
 御承知でもございましょうが、明治初年の書画骨董ときたらほんとうの捨て売りで、菊池容斎や
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