に一日でも仇《かたき》のことを忘れたことはありませんでした。仇は元の主人の野村彦右衛門。いっそ一と思いに成敗するならば格別、こんなむごたらしい仕置をして、人間ひとりを一生の不具者にしたかと思うと、どうしてもその仇を取らなければならない。といって、相手は立派な侍で、武芸も人並以上にすぐれていることを知っていますから、眼のみえない私が仇を取るにはどうしたらよいか、いろいろ考え抜いた揚句に、思いついたのが針でした。宇都宮でも江戸でも針の稽古をしていましたから、その針の太いのをこしらえておいて、不意に飛びかかってその眼玉を突く。そう決めてから、暇《ひま》さえあれば針で物を突く稽古をしていると、人の一心はおそろしいもので、しまいには一本の松葉でさえも狙いをはずさずに突き刺すようになりましたが、さて今度はその相手に近寄る手だてに困りました。彦右衛門は屋敷の用向きで江戸と国許のあいだをたびたび往復することを知っていましたので、この渡し場に待っていて、船に乗るか、船から降りるか、そこを狙って本意を遂げようと、師匠の検校には国へ帰るといって暇を貰いまして、ここへ来ましてから足かけ五年、毎日根気よく渡し場へ出て行って、上《のぼ》り下《くだ》りの旅人を一々にあらためていましたが、野村とも彦右衛門ともいう者にどうしても出逢わないうちに、自分の命が終ることになりました。いや、こんなことは自分の胸ひとつに納めておけばよいのですが、誰かに一度は話しておきたいような気もしましたので、とんだ長話をしてしまいました。かえすがえすもお前さんには御世話になりました。あらためてお礼を申します。」
 言うだけのことを言ってしまって、彼はにわかに疲労したらく、そのまま横向きになって木枕に顔を押し付けた。平助も黙って自分の寝床にはいった。
 夜半から雪もやみ、風もだんだんに吹きやんで、この一軒家をおどろかすものもなかった。利根の川水も凍ったように、流れの音を立てなかった。
 河原の朝は早く明けて、平助はいつもの通りに眼をさますと、病人はしずかに眠っているらしかった。あまり静かなので、すこし不安に思って覗いてみると、座頭はかの針で自分の頸《くび》すじを突いていた。多年その道の修業を積んでいるので、彼は脈どころの急所を知っていたらしく、ただ一本の針で安々と死んでいるのであった。

 他の船頭どもにも手伝ってもらって、平助は座頭の死骸を近所の寺へ葬った。勿論、かの針も一緒にうずめた。平助は正直者であるので、座頭が形見の小判五枚には手を触れず、すべて永代《えいたい》の回向《えこう》料としてその寺に納めてしまった。
 それから六年、かの座頭がこの渡し場に初めてその姿をあらわしてから十一年目の秋である。八月の末に霖雨《りんう》が降りつづいたので、利根川は出水して沿岸の村々はみな浸された。平助の小屋も押し流された。それがために房川の船渡しは十日あまりも止っていたが、九月になって秋晴れの日がつづいたので、ようやく船を出すことになると、両岸の栗橋と古河とにつかえていた上り下りの旅人は川のあくのを待ちかねて、さきを争って一度に乗り出した。
「あぶねえぞ、気をつけろよ。水はまだほんとうに引いていねえのに、どの船もみんないっぱいだからな。」
 平助じいさんは岸に立ってしきりに注意していると、古河の方から漕ぎ出した一艘の船はまだ幾間も進まないうちに、強い横波のあおりをうけて、あれという間に転覆した。平助のいう通り水はまだほんとうに引いていないので、船頭どものほかにも村々の若い者らが用心のために出張《でば》っていたので、それを見ると皆ばらばらと飛び込んで、あわや溺れそうな人々を見あたり次第に救い出して、もとの岸へかつぎあげた。手当を加えられて、どの人もみな正気にかえったが、そのなかでただひとりの侍はどうしても生きなかった。身なりも卑しくない四十五六の男で、ふたりの供を連れていた。
 供の者はいずれも無事で、その二人の口から、かの溺死者の身の上が説明された。かれは奥州の或る藩中の野村彦右衛門という侍で、六年以前から眼病にかかって、この頃ではほとんど盲目同様になった。江戸に眼科の名医があるというのを聞いて、主君へも届け済みの上で、その療治のために江戸へのぼる途中、ここで測らずも禍《わざわ》いに逢ったのである。盲目同様であるから、道中は駕籠に乗せられて、ふたりの家来にたすけられて来たのであるが、この場合、相当に水練の心得もあるはずの彼がどうして自分ひとり溺死したかと、家来も怪しむように語った。
 それとはまたすこし違った意味で、平助じいさんは彼の死を怪しんだ。ほかの乗合いがみんな救われた中で、野村彦右衛門という盲目の侍だけがどうして溺れ死んだか、それを思うと、平助はまたにわかにぞっとした。彼は供の家来にむかって、このお方には奥さまがあるかとひそかに訊くと、御新造さまは遠いむかしに御離縁になったと答えた。いつの頃にどういうことで離縁になったのか、そこまでは平助も押して訊くわけにはいかなかった。
 旅先のことであるから、家来どもは主人のなきがらを火葬にして、遺骨を国許へ持ち帰ると言っていた。平助は近所の寺へまいって、かの座頭の墓にあき草の花をそなえて帰った。
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   兄妹《きょうだい》の魂《たましい》


     一

 第三の男は語る。

 これは僕自身が逢着《ほうちゃく》した一種奇怪の出来事であるから、そのつもりで聴いてくれたまえ。僕の友だちの赤座という男の話だ。
 赤座は名を朔郎といって、僕と同時に学校を出た男だ。卒業の後は東京で働くつもりであったが、卒業の半年ほど前に郷里の父が突然死んだので、彼はどうしても郷里へ帰って、実家の仕事を引嗣がなければならない事情ができて、学校を出るとすぐに郷里へ帰った。赤座の郷里は越後のある小さい町で、彼の父は○○教の講師というものを勤めていて、その支社にあつまって来る信徒たちに向ってその教義を講釈していたのであった。○○教の組織は僕もよく知らない。素人の彼が突然に郷里へ帰ってすぐに父の跡目を受嗣ぐことが出来るものかどうか、その辺の事情はくわしく判らなかったが、ともかくも彼が郷里へ帰ってから僕のところへよこした手紙によると、彼はとどこおりなく父のあとを襲って、○○教の講師というものになったらしい。
 もっとも、彼は僕とおなじく文科の出身で、そういう家の伜だけに、ふだんから宗教についても相当の研究を積んでいたらしいから、まず故障なしに父の跡目相続が出来たのであろう。しかし彼はその仕事をあまり好んでいないらしく、仲のいい友だち七、八人が催した送別会の席上でも、どうしても一旦は帰らなければならない面倒な事情を話して、しきりに不平や愚痴をならべていた。
「なに、二、三年のうちに何とか解決をつけて、また出て来るよ。雪のなかに一生うずめられて堪るものか。」
 こんなことを彼は言っていた。郷里へ帰った後もわれわれのところへ、手紙をしばしばよこして、いろいろの事情から容易に現在の職をなげうつことが出来ないなどと、ひどく悲観したようなことを書いて来た。
 赤座の実家には老母と妹がある。このふたりの女は無論に○○教の信仰者で、右ひだりから無理に彼をおさえつけて、どうしてもその職を去ることを許さないらしい。それに対して、彼にも非常の煩悶《はんもん》があったらしく、こんなことなら、なんのために生きているのか判らない。いっそ自分のあずかっている社《やしろ》に火をつけて、自分も一緒に焼け死んでしまった方がましかも知れないなどと、ずいぶん過激なことを書いてよこしたこともあったように記憶している。送別会に列席した七、八人の友だちも職業や家庭の事情で皆それぞれに諸方へ散ってしまって、依然東京に居残っているものは村野という男と僕とたった二人、しかも村野はひどく筆|不精《ぶしょう》な質《たち》で、赤座の手紙に対して三度に一度ぐらいしか返事をやらないので、自然に双方のあいだが疎《うと》くなって、しまいまで彼と手紙の往復をつづけているものは僕一人であったらしい。
 赤座の手紙は、毎月一度ぐらいずつ必ず僕の手にとどいた。僕もその都度《つど》にかならず返事をかいてやった。こうして二年ほどつづいている間に、彼の心機はどう転換したものか、自分が現在の境遇に対して不満を訴えることが、だんだんに少なくなった。しまいには愚痴らしいことは一と言もいわず、むしろその教えのために自分の一生涯をささげようと決心しているらしくも思われた。○○教というのはどんな宗教か知らないが、ともかくも彼がその信仰によって生きることが出来れば幸いであると、僕もひそかによろこんでいた。
 彼が郷里へ帰ってから三年目に母は死んだ。その後も妹と二人暮らしで、支社につづいた社宅のような家に住んでいることを僕は知っていた。それからまた二年目の三月に、彼は妹を連れて上京した。勿論、それは突然なことではなく、来年の春は教社の用向きでぜひ上京する。妹もまだ一度も東京を知らないから、見物ながら一緒につれてゆくということは、前の年の末から前触れがあったので、僕は心待ちに待っていると、果して三月の末に赤座の兄妹《きょうだい》は越後から出て来た。汽車の着く時間はわかっていたので、僕は上野まで出迎えにゆくと、彼が昔とちっとも変っていないのにまずおどろかされた。
 ○○教の講師を幾年も勤めているというのであるから、定めて行者《ぎょうじゃ》かなんぞのように、長い髪でも垂れているのか、髯《ひげ》でもぼうぼうと生やしているのか、冠のような帽子でもかぶっているのか、白い袴でも穿いているのか。――そんな想像はみんなはずれて、彼はむかし通りの五分刈り頭で、田舎仕立てながらも背広の新しい洋服を着て、どこにも変った点はちっとも見いだされなかった。ただ鼻の下にうすい髯《ひげ》をたくわえたのが少しく彼をもったいらしく見せているだけで、彼はやはり学生時代とおなじように若々しい顔の持主であった。
「やあ。」
「やあ。」
 こんな簡単な挨拶が交換された後に、彼は自分のそばに立っている小柄の娘を僕に紹介した。それが彼の妹の伊佐子というので、年は十九であるそうだが、いかにも雪国の女を代表したような色白のむすめで、可愛らしい小さい眼と細い眉とをもっていた。
「いい妹さんだね。」
「むむ。母がいなくなってから、家《うち》のことはみんな此女《これ》に頼んでいるんだ。」と、赤座はにこにこしながら言った。
 一緒に電車に乗って僕の家まで来るあいだにも、この兄妹が特別の親しみをもっているらしいことは僕にもよく想像された。それから約一カ月も僕の家に滞在して、教社の用向きや東京見物に春の日を暮らしていたが、たしか四月の十日と記憶している。僕は兄妹を誘って向島の花見に出かけると、それほどの強い降りでもなかったが、その途中から俄雨に出逢ったので、よんどころなしに或る料理屋へ飛び込んで、二時間ばかり雨やみを待っているあいだに、赤座は妹の身の上についてこんなことを話した。
「こんな者でも相応なところから嫁に貰いたいと申込んで来るが、何しろ此女《これ》がいなくなると僕が困るからね。この女《こ》も僕の家内がきまるまでは他へ縁付かないと言っている。ところで、僕の家内というのがまたちょっと見つからない。いや、今までにも二、三人の候補者を推薦されたが、どうも気に入ったのがないんでね。なにしろ、僕の家内という以上、どうしても同じ信仰をもった者でなければならない。身分や容貌《きりょう》などはどうでもいいんだが、さてその信仰の強い女というのが容易に見あたらないので困っている。」
 彼は最初の煩悶からまったく解脱《げだつ》して、今ではその教義に自分の信仰を傾けているらしかった。しかし、とうてい教化の見込みはないと思ったのか、僕に対しては、その教義の宣伝を試みたことはなかった。東京の桜がみんな青葉になった頃に、赤座兄妹は僕に見送られて上野を出発した。
 それぎりで、僕はこの兄妹に出逢うことが出来なかったのか、それとも重
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