喜悦と満足とを感じながら、また一面には、今夜の自分の恥かしい行為が悔まれた。相手が素直にかの笛を渡してくれただけに、斬取り強盗にひとしい重々の罪悪が彼のこころにいよいよ強い呵責《かしゃく》をあたえた。それでもあやまって相手を殺さなかったのが、せめてもの仕合せであるとも思った。
 夜があけたならば、もう一度かの浪人をたずねて今夜の無礼をわび、あわせてこの笛に対する何かの謝礼をしなければならないと決心して、彼は足を早めて屋敷へ戻ったが、その夜はなんだか眼が冴えておちおちと眠られなかった。
 夜のあけるのを待ちかねて、喜兵衛は早々にゆうべの場所へたずねて行った。その懐中には小判三枚を入れていた。河原には秋のあさ霧がまだ立ち迷っていて、どこやらで雁《がん》の鳴く声がきこえた。
 芒をかきわけて小屋に近寄ると、喜兵衛はにわかにおどろかされた。石見弥次右衛門は小屋の前に死んでいたのである。彼は喜兵衛が捨てて行った竹槍を両手に持って、我れとわが喉《のど》を突き貫いていた。

 そのあくる年の春、喜兵衛は妻を迎えて、夫婦の仲もむつまじく、男の子ふたりを儲けた。そうして何事もなく暮らしていたが、前の出来事から七年目の秋に、彼は勤め向きの失策から切腹しなければならないことになった。彼は自宅の屋敷で最期《さいご》の用意にかかったが、見届けの役人にむかって最期のきわに一曲の笛を吹くことを願い出ると、役人はそれを許した。
 笛は石見弥次右衛門から譲られたものである。喜兵衛は心しずかに吹きすましていると、あたかも一曲を終ろうとするときに、その笛は、怪しい音を立てて突然ふたつに裂けた。不思議に思ってあらためると、笛のなかにはこんな文字が刻みつけられていた。
[#天から3字下げ]九百九十年 終《にしておわる》       浜主
 喜兵衛は斯道《しどう》の研究者であるだけに、浜主の名を知っていた。尾張《おわり》の連《むらじ》浜主《はまぬし》はわが朝に初めて笛をひろめた人で斯道の開祖として仰がれている。ことしは天保九年で、今から逆算すると九百九十年前は仁明天皇の嘉祥元年、すなわちかの浜主が宮中に笛を奏したという承和十二年から四年目に相当する。浜主は笛吹きであるが、初めのうちは自ら作って自ら吹いたのである。この笛に浜主の名が刻まれてある以上、おそらく彼の手に作られたものであろうが、笛の表ならば格別、細い管《くだ》のなかにどうしてこれだけの漢字を彫ったか、それが一種の疑問であった。
 さらに不思議なのは、九百九十年にして終るという、その九百九十年目があたかも今年に相当するらしいことである。浜主はみずからその笛を作って、みずからその命数を定めたのであろうか。今にして考えると、かの石見弥次右衛門の因縁話も嘘ではなかったらしい。怪しい因縁を持ったこの笛は、それからそれへとその持主に禍いして、最後の持主のほろぶる時に、笛もまた九百九十年の命数を終ったらしい。
 喜兵衛は、あまりの不思議におどろかされると同時に、自分がこの笛と運命を共にするのも逃れがたき因縁であることを覚った。彼は見届けの役人にむかって、この笛に関する過去の秘密を一切うち明けた上で、尋常に切腹した。
 それが役人の口から伝えられて、いずれも奇異の感に打たれた。喜兵衛と生前親しくしていた藩中の誰かれがその遺族らと相談の上で、二つに裂けたかの笛をつぎあわせて、さきに石見弥次右衛門が自殺したと思われる場所にうずめ、標《しるし》の石をたてて笛塚の二字を刻ませた。その塚は明治の後までも河原に残っていたが、二度の出水のために今では跡方もなくなったように聞いている。
[#改ページ]

   龍馬《りゅうめ》の池《いけ》

     一

 第十二の男は語る。

 わたしは写真道楽で――といっても、下手の横好きのお仲間なのですが、ともかく道楽となると、東京市内や近郊でばかりパチリパチリやっているのではどうしても満足が出来ないので、忙しい仕事の暇をぬすんで各地方を随分めぐり歩きました。そのあいだにはいろいろの失策談や冒険談もあるのですが、今夜の話題にふさわしいお話というのは、今から四年ほど前の秋、福島県の方面へ写真旅行を企てたときの事です。
 そのときに自分ひとりで出かけたのですが、白河《しらかわ》の町には横田君という人がいる。わたしは初対面の人ですが、友人のE君は前からその人を知っていて、白河へ行ったならば是非たずねてみろと言って、丁寧な紹介状を書いてくれたので、わたしは帰り路にそこを訪ねると、横田君の家は土地でも旧家らしい呉服屋で、商売もなかなか手広くやっているらしい。わたしの紹介された人はそこの若主人で、これも写真道楽の一人ですから、初対面のわたしを非常に歓待してくれまして、別棟になっている奥座敷へ泊めていろいろの御馳走をしてくれる。まったく気の毒なくらいでした。
 日が暮れてから横田君はわたしの座敷へ来て、夜のふけるまで話していましたが、そのうちに横田君はこんなことを言い出しました。
「どうもこの近所には写真の題になるようないい景色のところもありません。しかし折角おいでになったのですから、何か変ったところへ御案内したい。これから五里半以上、やがて六里ほどもはいったところに龍馬の池というのがあります。少し遠方ですが、途中までは乗合馬車がかよっていますから、歩くところはまず半分ぐらいでしょう。どうです、一度行って御覧になりませんか。」
「わたしは旅行馴れていますから、少しぐらい遠いのは驚きません。そこで、その龍馬の池というのは景色のいいところなんですか。」
「景色がいいというよりも、大きい木が一面に繁っていて、なんだか薄暗いような、物凄いところです。昔は非常に大きい池だったそうですが、今ではまあ東京の不忍池《しのばずのいけ》よりも少し広いくらいでしょう。遠い昔には龍が棲んでいた。――おそらく大きい蛇か、山椒《さんしょう》の魚《うお》でも棲んでいたのでしょうが、ともかくも龍が棲んでいたというので、昔は龍の池と呼んでいたそうですが、それが中ごろから転じて龍馬の池ということになったのです。それについて一種奇怪の伝説が残っています。今度あなたを御案内したいというのも、実はそのためなのですが……。あなたはお疲れでお眠くはありませんか。」
「いえ、わたしは夜ふかしをすることは平気です。その奇怪な伝説というのはどんなことですか。」と、わたしも好奇心をそそられて訊きました。
「さあ、それをお話し申しておかないと、御案内の価値がないようなことにもなりますから、一応はお耳に入れておきたいと思います。」
 今夜も十時を過ぎて、庭には鳴き弱ったこおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]の声がきこえる。九月の末でも、ここらでは火鉢を引寄せたいくらいの夜寒《よさむ》が人に迫ってくるように感じられました。横田君は一と息ついて、さらにその龍馬の池の秘密を説きはじめました。
「なんでも奥州の秀衡《ひでひら》の全盛時代だといいますから、およそ八百年ほどもまえのことでしょう。かの龍の池から一町あまりも離れたところに、黒太夫という豪農がありました。九郎というのではなく、黒と書くのだそうです。御承知の通り、奥州は馬の産地で、近所の三春《みはる》には大きい馬市が立っていたくらいですから、黒太夫の家にもたくさんの馬が飼ってありました。それからまた、龍の池のほとりには一つの古い社《やしろ》がありました。いつの頃に建てられたものか知りませんが、よほど古い社であったそうで、土地の者は龍神の社とも水神の社とも呼んでいましたが、その社の前に木馬《もくば》が立っていました。普通ならば御神馬《ごしんめ》と唱えて、ほんとうの生きた馬を飼っておくのですが、ここのはほんとうの馬と同じ大きさの木馬で、いつの昔に誰が作ったのか知りませんが、その彫刻は実に巧妙なもので、ほとんど生きているかと思われるほどであったそうです。したがって、この木馬が時どきに池の水を飲みに出るとか、正月元日には三度いななくとか、いろいろの噂が伝えられて、土地の者はそれを信じていたのです。
 ところがその木馬がある時どこへか姿を隠してしまった。前の伝説がありますから、おそらくどこへか出て行って、再び戻って来るものと思っていると、それが三月たっても半年たっても再び姿をみせない。元来が小さい社で神官も別当もいるわけではないのですから、馬がどうして見えなくなったか、その事情は勿論わからない。まさか盗まれたわけでもあるまい。盗んだところでどうにもなりそうもない。霊ある木馬はこの池の底へ沈んでしまったのではあるまいか、という説が多数を占めて、まずそのままになっていると、その年の秋には暴風雨があって、池の水が溢れ出して近村がことごとく水にひたされる。そのほかにも悪い病いが流行《はや》る。かの木馬の紛失以来、いろいろの災厄がつづくので、土地の者も不安に襲われました。
 とりわけて心配したのはかの黒太夫で、なにぶんにも所有の土地も広く、家族も多いのですから、なにかの災厄のおこるたびに、その被害が最も大きい。そこで村の者どもとも相談して、黒太夫の一手でかの木馬を新しく作って、龍神の社前に供えるということになりました。しかしその頃の奥州にはとてもそれだけの彫刻師はいない。もちろん平泉《ひらいずみ》には相当の仏師もいたのですが、今までのが優れた作であるだけに、それに劣らないような腕前の職人を物色するということになると、なかなか適当の人間が見あたらない。
 これには黒太夫も困っていると、ある晩にひとりの山伏が来て一夜のやどりを求めたので、黒太夫もこころよく泊めてやる。そうして、なにかの話からかの木馬の話をすると、山伏のいうには、それにはいいことがある。今度奥州の平泉に金色堂というものが出来るについて、都から大勢の仏師や番匠《ばんじょう》やいろいろの職人が下って来る。そのなかに祐慶という名高い仏師がいる。この人は仏ばかりでなく、花鳥や龍や鳳凰や、すべての彫刻の名人として知られているから、この人の通るのを待ち受けて、なんとか頼んでみてはどうだ。わたしは宇都宮で逢ったから、おそらく一日二日のうちにはここへ来るだろうというのです。
 それをきいて黒太夫は非常によろこびました。山伏はあくる朝、ここを立ってしまいましたが、黒太夫はすぐに支度をして、家内の者四、五人を供につれて、街道筋へ出張って待ちうけていると、果してその祐慶という人が通りかかりました。黒太夫が想像していたのとは違って、まだ二十四五の若い男で、これがそれほど偉い人かと少しく疑われるくらいでしたが、ともかくも呼びとめて木馬の彫刻をたのみますと、祐慶は、先をいそぐからというので断りました。それをいろいろに口説いて、なにしろその場所を一度見てくれといって、無理に自分の屋敷まで連れて来ることになったのです。
 祐慶は案内されて、かの龍神の社へ行って、龍の池のあたりを暫く眺めていましたが、それほどお頼みならば作ってもよろしい。しかし馬ばかり作ったのでは再び立去るおそれがあるから、どうしてもその手綱《たづな》を控えている者を添えなければならないが、それでも差支えないかと念を押したそうです。
 もちろん、差支えはないと言うほかないので、万事よろしく頼むことになりますと、祐慶は彫刻をするために生きた人間と生きた馬を手本に貸してくれという。つまり今日《こんにち》のモデルといったわけです。前にも申した通り、黒太夫の家にはたくさんの馬が飼ってある。その中から裕慶は白鹿毛《しろかげ》の大きい馬を選び出しました。そこで、その綱を取っている者は誰にしたらいいかという詮議になると、祐慶は大勢の馬飼いのうちから捨松というのを選びました。
 捨松はことし十五の少年で、赤児のときに龍神の社の前に捨ててあったのを黒太夫の家で拾いあげて、捨て子であるから捨松という名をつけて、今日まで育てて来たので、ほんとうの子飼いの奉公人です。そういうわけで、親もわからない、身許も判らない人間ですから、黒太夫も不憫を加えて召使っている。当
前へ 次へ
全26ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング