しょう。その官員さんの囲いもの――そのころは権妻《ごんさい》という詞《ことば》が流行っておりました。――になって、この番衆町に地面や家を買ってもらって、旦那様はときどきに忍んで来たというわけでございました。
 それで四、五年は無事であったのですが、この春ごろから旦那様の車がだんだんに遠ざかって、六月頃からはぱったりと足が止まってしまいました。飯田の御新造も心配していろいろ探索してみると、旦那様は柳橋の芸妓に新しいお馴染が出来たということが判りました。しかもその芸妓は、御新造が勤めをしているころに妹分同様にして引立ててやった若い女だと判ったので、御新造は歯がみをして口惜《くや》しがったそうでございます。
 もっとも旦那様から月々のお手当はやはり欠かさずに届けて来るので、生活に困るというようなことはなかったのですが、妹分の女に旦那を取られたのが無暗に口惜しかったらしい。それは無理もないことですが、この御新造は人一倍に嫉妬ぶかい質《たち》とみえまして、相手の芸妓が憎くてならなかったのです。
 旦那様が番衆町の方から遠のいたのは、わたくしの想像した通り、御新造に頑固な婦人病があったからで、これまでにもいろいろの療治をしたのですが、どうしても癒らないばかりか、年々に重ってゆくという始末なので、旦那様もふたたび元地の柳橋へ行って新しいお馴染をこしらえたような訳で、旦那様の方にもまあ無理のないところもあるのでございましょう。それでも月々のお手当はとどこおりなく呉れて、ちっとも不自由はさせていないのですから、御新造も旦那様を怨もうとはしなかったのですが、どう考えても相手の女が憎い、怨めしい。そのうちに一方の病気はだんだんに重って来る。御新造はいよいよ焦々《いらいら》して、いっそ死んでしまいたい、コレラにでもなってしまいたいと言い暮らしているうちに、いくらか神経も狂ったのかも知れません、ほんとうにコレラになる気になったらしく、お元ばあやの止めるのもきかないで、この際むやみに食べては悪いというものを遠慮なしに食べるようになったのでございます。
 むじなの子の首を鎌でむごたらしく斬ったなどというのも、やはり神経が狂っているせいでしたろうが、むじながその芸妓にでも見えたのか、それともむじなをその芸妓になぞらえて予譲《よじょう》の衣《きぬ》というような心持であったのか、そこまでは判りません。
 いずれにしても、御新造はその本望通りコレラになってしまったのでございます。浅草の偉い行者というのはどんな人か、またどんなお祈りをするのか知りませんが、御新造はその行者に秘密のお祷りでも頼んで、自分の死ぬときには相手の女も一緒に連れて行くことが出来るという事を信じていたらしいのです。
 それで、あらかじめ黄いろい紙を二枚用意しておいて、いざというときには、一枚を柳橋のこうこういう家の門《かど》に貼ってくれと頼むことにしたのであろうと思われます。御新造に呪われたのか、それとも自然の暗合か、とにかくその芸妓も同日にコレラに罹ったのは事実で、やはりその夜なかに死んだそうでございます。
 お元というばあやは御新造の遺言《ゆいごん》で、その着物から持物全部を貰って国へ帰りました。このばあやは柳橋時代から御新造に仕えていた忠義者で、生れは相模《さがみ》の方だとか聞きました。お仲はお元からいくらかの形見《かたみ》を分けてもらって、またどこへか奉公に出たようでした。残っている地面と家作は御新造の弟にゆずられることになりましたが、この弟は本所辺で馬具屋をしている男で、評判の道楽者であったそうですから、半年と経たないうちに、その地面も家作もみな人手にゆずり渡してしまいました。
 そうなると、世間では碌なことは言いません。あすこの家は、飯田の御新造の幽霊が出るの何のと取留めもないことを言い触らす者がございます。しかしその後に引移って来た藤岡さんという方の奥さんが、五年目の明治二十四年にインフルエンザでなくなり、またそのあとへ来た陸軍中佐の方が明治二十七年の日清戦争で戦死し、その次に来た松沢という人が株の失敗で自殺したのは事実でございます。
 わたくしも二十年ほど前にそこを立退きましたので、その後のことは存じません。近年はあの辺がめっきり開けましたので、飯田さんの家というのも今はどこらになっているのか、まるで見当が付かなくなってしまいました。おそらく竹藪が伐り払われると共に取毀されたのでございましょう。
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   笛塚《ふえづか》

     一

 第十一の男は語る。

 僕は北国の者だが、僕の藩中にこういう怪談が伝えられている。いや、それを話す前に、かの江戸の名奉行根岸肥前守のかいた随筆「耳袋《みみぶくろ》」の一節を紹介したい。
「耳袋」のうちにはこういう話が書いてある。美濃《みの》の金森兵部少輔の家が幕府から取潰されたときに、家老のなにがしは切腹を申渡された。その家老が検視の役人にむかって、自分はこのたび主家の罪を身に引受けて切腹するのであるから、決してやましいところはない。むしろ武士として本懐に存ずる次第である。しかし実を申せば拙者には隠れたる罪がある。若いときに旅をしてある宿屋に泊ると、相宿《あいやど》の山伏が何かの話からその太刀をぬいて見せた。それが世にすぐれたる銘刀であるので、拙者はしきりに欲しくなって、相当の価でゆずり受けたいと懇望したが、家重代《いえじゅうだい》の品であるというので断られた。それでもやはり思い切れないので、あくる朝その山伏と連れ立って人通りのない松原へ差しかかったときに、不意に彼を斬り殺してその太刀を奪い取って逃げた。それは遠い昔のことで、幸いに今日《こんにち》まで誰にも覚られずに月日を送って来たが、今更おもえば罪深いことで、拙者はその罪だけでもかような終りを遂げるのが当然でござると言い残して、尋常に切腹したということである。これから僕が話すのも、それにやや似通っているが、それよりも、さらに複雑で奇怪な物語であると思ってもらいたい。

 僕の国では謡曲や能狂言がむかしから流行する。したがって、謡曲や狂言の師匠もたくさんある。やはりそれらからの関係であろう、武士のうちにも謡曲はもちろん、仕舞《しまい》ぐらいは舞う者もある。笛をふく者もある。鼓をうつ者もある。その一人に矢柄喜兵衛という男があった。名前はなんだか老人らしいが、その時はまだ十九の若侍で御馬廻りをつとめていた。父もおなじく喜兵衛といって、せがれが十六の夏に病死したので、まだ元服したばかりのひとり息子が父の名をついで、とどこおりなく跡目を相続したのである。それから足かけ四年のあいだ、二代目の若い喜兵衛も無事に役目を勤め通して、別に悪い評判もなかったので、母も親類も安心して、来年の二十歳《はたち》にもなったならば、しかるべき嫁をなどと内々心がけていた。
 前にいったような国風であるので、喜兵衛も前髪のころから笛を吹き習っていた。他藩であったら或いは柔弱のそしりを受けたかも知れないが、ここの藩中では全然無芸の者よりも、こうした嗜《たしな》みのある者がむしろ侍らしく思われるくらいであったから、彼がしきりに笛をふくことを誰もとがめる者はなかった。
 むかしから丸年《まるどし》の者は歯並みがいいので笛吹きに適しているとかいう俗説があるが、この喜兵衛も二月生れの丸年であるせいか、笛を吹くことはなかなか上手で、子供のときから他人《ひと》も褒める、親たちも自慢するというわけであったから、その道楽だけは今も捨てなかった。
 天保《てんぽう》の初年のある秋の夜である。月のいいのに浮かされて、喜兵衛は自分の屋敷を出た。手には秘蔵の笛を持っている。夜露をふんで城外の河原へ出ると、あかるい月の下に芒《すすき》や芦《あし》の穂が白くみだれている。どこやらで虫の声もきこえる。喜兵衛は笛をふきながら河原を下《しも》の方へ遠く降ってゆくと、自分のゆく先にも笛の音《ね》がきこえた。
 自分の笛が水にひびくのではない、どこかで別に吹く人があるに相違ないと思って、しばらく耳をすましていると、その笛の音が夜の河原に遠く冴えてきこえる。吹く人も下手ではないが、その笛がよほどの名笛であるらしいことを喜兵衛はさとって、彼はその笛の持主を知りたくなった。
 笛の音に寄るのは秋の鹿ばかりではない。喜兵衛も好きの道にたましいを奪われて、その笛の方へ吸い寄せられてゆくと、笛は河しもに茂る芒のあいだから洩れて来るのであった。自分とおなじように今夜の月に浮かれて出て、夜露にぬれながら吹き楽しむ者があるのか、さりとは心憎いことであると、喜兵衛はぬき足をして芒叢《すすきむら》のほとりに忍びよると、そこには破筵《やれむしろ》を張った低い小屋がある。いわゆる蒲鉾《かまぼこ》小屋で、そこに住んでいる者は宿無しの乞食であることを喜兵衛は知っていた。
 そこからこういう音色の洩れて来ようとは頗る意外に感じられたので、喜兵衛は不審そうに立停まった。
「まさかに狐や狸めがおれをだますのでもあるまい。」
 こっちの好きに付け込んで、狐か川獺《かわうそ》が悪いたずらをするのかとも疑ったが、喜兵衛も武士である。腰には家重代の長曽弥虎徹《ながそねこてつ》をさしている。なにかの変化《へんげ》であったらば一刀に斬って捨てるまでだと度胸をすえて、彼はひと叢しげる芒をかきわけて行くと、小屋の入口のむしろをあげて、ひとりの男が坐りながらに笛を吹いていた。
「これ、これ。」
 声をかけられて、男は笛を吹きやめた。そうして、油断しないような身構えをして、そこに立っている喜兵衛をみあげた。
 月のひかりに照らされた彼の風俗はまぎれもない乞食のすがたであるが、年のころは二十七八で、その人柄がここらに巣を組んでいる普通の宿無しや乞食のたぐいとはどうも違っているらしいと喜兵衛はひと目に見たので、おのずと詞もあらたまった。
「そこに笛を吹いてござるのか。」
「はい。」と、笛をふく男は低い声で答えた。
「あまりに音色が冴えてきこえるので、それを慕ってここまでまいった。」と、喜兵衛は笑みを含んで言った。
 その手にも笛を持っているのを、男の方でも眼早く見て、すこしく心が解けたらしい、彼の詞も打解けてきこえた。
「まことにつたない調べで、お恥かしゅうござります。」
「いや、そうでない。せんこくから聴くところ、なかなか稽古を積んだものと相見える。勝手ながらその笛をみせてくれまいか。」
「わたくし共のもてあそびに吹くものでござります。とてもお前さま方の御覧に入るるようなものではござりませぬ。」
 とは言ったが、別に否《いな》む気色《けしき》もなしに、彼はそこらに生えている芒の葉で自分の笛を丁寧に押しぬぐって、うやうやしく喜兵衛のまえに差出した。
 その態度が、どうしてただの乞食でない。おそらく武家の浪人が何かの子細で落ちぶれたのであろうと喜兵衛は推量したので、いよいよ行儀よく挨拶した。
「しからば拝見。」
 彼はその笛を受取って、月のひかりに透かしてみた。それから一応断った上で、試みにそれを吹いてみると、その音律がなみなみのものでない、世にも稀なる名管《めいかん》であるので、喜兵衛はいよいよ彼を唯者でないと見た。自分の笛ももちろん相当のものではあるが、とてもそれとは比べものにならない。喜兵衛は彼がどうしてこんなものを持っているのか、その来歴を知りたくなった。一種の好奇心も手伝って、彼はその笛を戻しながら、芒を折敷いて相手のそばに腰をおろした。
「おまえはいつ頃からここに来ている。」
「半月ほど前からまいりました。」
「それまではどこにいた。」と、喜兵衛はかさねて訊いた。
「このような身の上でござりますから、どこという定めもござりませぬ。中国から京大坂、伊勢路《いせじ》、近江路、所々をさまよい歩いておりました。」
「お手前は武家でござろうな。」と、喜兵衛は突然に訊いた。
 男はだまっていた。この場合、なんらの打消しの返事をあたえないのは、それを承認したものと見られるので、喜兵衛は更にすり
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