想像以上で、弟子のうちでも少しく大きい子どもは顔を赧《あか》くするようなことが度たびであった。十二三になる娘などは、もうあのお師匠さんへ行くのはいやだと言い出したものもあった。そんなわけで、多くもない弟子がだんだんに減って来るばかりか、貯えの金も大抵使い果してしまったので、仲のよい夫婦も一年あまりの後には世帯の苦労が身にしみて来た。
「わたくしはもともと乞食ですから、ふたたび元の身の上にかえると思えばよいのです。」
お冬は平気でいるらしかったが、庄兵衛は最愛の妻を伴って乞食をする気にはなれなかった。元和二年の師走《しわす》の夜に、かれが浅草の並木を通ると、むこうから来る一人の男に出逢った。それは町家の奉公人で、どこへか懸取りに行ったらしく見えたので、庄兵衛は俄かにきざした出来ごころから不意にそのゆく手に立ちふさがった。
「この師走に差迫って、浪人の身で難渋いたす。御合力《ごこうりょく》くだされ。」
一種の追剥ぎとみて、相手も油断しなかった。彼は何の返事もせずに、だしぬけに自分の穿いている草履をとって、庄兵衛の顔を強くうった。そうして、こっちの慌てる隙をみて、かれは一目散に逃げ去ろうとしたのである。
泥草履で真っこうをうたれて、庄兵衛は赫《かっ》となった。斬ってしまって、いまさら悔む気にもなったが、毒食わば皿までと度胸をすえて、庄兵衛は死人の首にかけている財布を奪い取って逃げた。浅草寺のほとりまで来て、そっとその財布をあらためると、銭が二貫文ほどはいっているだけであった。
「こればかりのことで飛んだ罪を作った。」と、彼はいよいよ後悔した。
しかし今の身の上では二貫文の銭《ぜに》も大切である。庄兵衛はその銭を懐ろにして家へ帰ったが、生れてから初めて斬取《きりと》り強盗を働いたのであるから、なんだか気が咎めてならない。万一の詮議に逢った時にその証拠を残しておいてはならないと思ったので、かれは燈火《あかり》の下で刀の血を丁寧に拭《ぬぐ》おうとしていると、お冬がそばから覗き込んだ。
「もし、それは人の血ではござりませぬか。」
「むむ、途中で追剥ぎに出逢ったので、一太刀斬って追い払った」と、庄兵衛は自分のことを逆に話した。
お冬はうなずいて眺めていたが、やがてその刀の血を嘗《な》めさせてくれと言った。これには庄兵衛もすこし驚いたが、自分の惑溺している美しい妻の要求をしりぞけることは出来なくて、彼はその言うがままに人間の血汐をお冬にねぶらせた。
その夜の閨《ねや》の内で、彼は妻からどんな註文を出されたのか知らないが、その後は日の暮れる頃から忍び出て、三日に一度ぐらいずつは往来の人を斬って歩いた。その刀の血をお冬は嬉しそうにねぶった。死人のふところから奪った金は、夫婦の生活費となった。ある夜、どうしても人を斬る機会がなくて路ばたの犬を斬って帰ると、お冬はそれを嘗めて顔色を悪くした。
「これは人の血ではござりませぬ。犬の血でござります。」
庄兵衛は一言もなかった。そればかりでなく、それが男の血であるか女の血であるか、あるいは子供の血であるかということまでも、お冬はいちいちに鑑別して庄兵衛をおどろかした。それがだんだんに劫《こう》じて来て、庄兵衛は袂に小さい壺を忍ばせていて、斬られた人の疵口から流れ出る生血《なまち》をそそぎ込んで来るようになった。
彼はその惨虐な行為に対して、時どきに良心の呵責《かしゃく》を感じることがないでもなかったが、その苦しみも妻の美しい笑顔に逢えば、あさ日に照らされる露のように消えてしまった。彼は一種の殺人鬼となって、江戸の男や女を斬ってあるいた。そうして、妻を喜ばせるばかりでなく、それが男の血であるか、女の血であるかを言い当てさせるのも、彼が一つの興味となった。
しかしこの時代でも、こうした悪鬼の跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》をいつまでも見逃がしてはおかなかった。殊に天下もようやく一統して、徳川幕府はもっぱら江戸の経営に全力をそそいでいる時節であるから、市中の取締りも決しておろそかにはしなかった。町奉行所ではこの頃しきりに流行るという辻斬りに対して、厳重に探索の網を張ることになった。庄兵衛も薄うすそれを覚らないではなかったが、今更どうしてもやめられない羽目になって、相変らずその辻斬りをつづけているうちに、彼は上野の山下で町廻りの手に捕われた。
牢屋につながれて三日五日を送っているあいだに、狂える心は次第に鎮まって、庄兵衛は夢から醒めた人のようになった。彼は役人の吟味に対して、いっさいの罪を正直に白状した。安房にいるときに、妻と中間とを無体に成敗したことまで隠さずに申立てた。
「なぜこのように罪をかさねましたか。我れながら夢のようでござります。」
彼もいちいち記憶していないが、元和二年の冬から翌年の夏にかけておよそ五十人ほどを斬ったらしいと言った。そうして、今になって考えると、かのお冬という一本足の女はどうもただの人間ではないかも知れないとも言った。その証拠として、かれは幾カ条かの怪しむべき事実をかぞえ立てたそうであるが、それは秘密に付せられて世に伝わらない。
いずれにしても、お冬という女も一応は吟味の必要があると認められて、捕り方の者四、五人が庄兵衛の留守宅にむかった。女ひとりを引っ立てて来るのに四、五人の出張《でば》りはちっと仰山《ぎょうさん》らしいが、庄兵衛の申立てによって奉行所の方でも幾分か警戒したらしい。
それは六月の末のゆうぐれで、お冬は竹縁に出て蚊やり火を焚いていたが、その煙りのあいだから捕り方のすがたを一と目みると、お冬は忽ちに起ちあがって庭へ飛び降りたかと思う間もなく、まばらな生け垣をかき破って表へ逃げ出した。捕り方はつづいて追って行った。
一本足でありながら、お冬は男の足も及ばないほどに早く走った。その頃はここらに溝川《みぞかわ》のようなものが幾すじも流れているのを、お冬はそれからそれへと飛ぶように跳り越えてゆくので、捕り方の者どももおどろかされた。それでもあくまでも追い詰めてゆくと、かれは隅田川の岸から身をひるがえして飛び込んだ。その途中、捕り方に加勢してかれのゆく手を遮ろうとした者もあったが、その物すごく瞋《いか》った顔をみると誰もみな飛びのいてしまった。
「早く舟を出せ。」
捕り方は岸につないである小舟に乗って漕ぎ出すと、お冬のすがたは一旦沈んでまた浮き出した。川の底で自分から脱いだのか、あるいは自然に脱げたものか、浮き上がった時のお冬は一糸もつけない赤裸で、一本足で浪を蹴ってゆく女の白い姿がまだ暮れ切らない水の上にあきらかに見えた。
それを目がけて漕いで行くと、あまり急いで棹を損じたためか、まだ中流まで行き着かないうちに、その小舟は横浪に煽られてたちまち転覆した。捕り方は水練の心得があったので、いずれも幸いに無事であったが、その騒ぎのあいだにお冬のゆくえを見失ってしまった。ともかくも向う岸の堤《どて》を詮議したが、そこらでは誰もそんな女を見かけた者はないとのことで、捕り方もむなしく引揚げた。
牢屋のなかでその話を聴いて、庄兵衛はいよいよ思い当ったように嘆息した。
「まったくあの女は唯物《ただもの》ではござらなんだ。あれが世にいう鬼女でござろう。」
それから十日《とおか》ほど経つと、庄兵衛は牢役人にむかって、早くお仕置をねがいたいと申出た。実は昨夜かのお冬が牢の外へ来て、しきりに自分を誘い出そうとしたが、自分はかたく断って出なかった。みすみす魔性の者とは思いながらも、かれの顔をみるとどうも心が動きそうでならない。一度は断っても、二度が三度とたび重なると、あるいは再び心が狂い出して破牢を企てるようなことにならないとも限らない。それを思うと、我れながら怖ろしくてならないから、一刻も早く殺してもらいたいというのであった。
その望みの通りに、彼はそれから二日の後、千住で磔刑《はりつけ》にかけられた。
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黄《き》いろい紙《かみ》
一
第十の女は語る。
近年はコレラなどというものもめったに流行しなくなったのは、まことに結構なことでございます。たとえ流行したと申したところで、予防も消毒も十分に行きとどきますから、一度の流行期間に百人か二百人の患者が出るのが精々でございます。ところが、以前はなかなかそういう訳にはまいりません。安政《あんせい》時代の大コレラというのはどんなでしたか、人の話に聴くばかりでよく存じませんが、明治時代になりましては、十九年のコレラが一番ひどかったと申します。
わたくしは明治元年の生れで丁度十九の夏でございましたから、その頃のことはよく知っておりますが、そのときの流行はひどいもので、東京市内だけでも一日に百五十人とか二百人とかいう患者が続々出るというありさまで、まったく怖ろしいことでした。これから申上げるのはその時のお話でございます。
わたくしの家は小谷《おだに》と申しまして、江戸時代から代々の医師でございました。父は若い時に長崎へ行って修業して来ましたそうで、明治になりましてから軍医を志願しまして、西南戦争にも従軍しました。そのとき、日向《ひゅうが》の延岡で流弾にあたって左の足に負傷しまして、一旦は訳もなく癒ったのですが、それからどうも左の足に故障が出来まして、跛足《びっこ》という程でもないのですが、片足がなんだか吊れるような具合いで、とうとう思い切って明治十七年から辞職することになりました。それでも幾らか貯蓄《たくわえ》もあり、年金も貰えるので、小体《こてい》に暮らしてゆけば別に困るという程でもありませんでしたが、これから無職で暮らして行こうとするには、やはりそれだけの陣立てをしなければなりません。父は母と相談して、新宿の番衆町に地所付きの家を買いました。
御承知でもありましょうが、新宿も今では四谷区に編入されて、見ちがえるように繁昌の土地になりましたが、そのころの新宿、殊に番衆町のあたりは全く田舎といってもよいくらいで、人家こそ建ち続いておりますけれども、それはそれは寂しいところでございました。
わたくしの父の買いました家は昔の武家屋敷で、門の左右は大きい竹藪に囲まれて、その奥に七|間《ま》の家《いえ》があります。地面は五百二十坪とかあるそうで、裏手の方は畑になっておりましたが、それでもまだまだ広いあき地がありました。ここらには狸や狢《むじな》も棲んでいるということで、夜は時どき狐の鳴き声もきこえました。そういうわけで、父は静かでよいと言っておりましたが、母やわたくしにはちっと静か過ぎて寂しゅうございました。お富という女中がひとりおりましたが、これは二十四五の頑丈な女で、父と一緒に畑仕事などもしてくれました。
番衆町へ来てから足かけ三年目が明治十九年、すなわち大コレラの年でございます。暑さも暑し、辺鄙《へんぴ》なところに住んでおりますので、めったに市内のまん中へは出ませんから、世間のこともよく判らないのでございますが、毎日の新聞を見ますと、市内のコレラはますます熾《さかん》になるばかりで、容易にやみそうもありません。
八月の末の夕方でございました。母とわたくしが広い縁側へ出て、市内のコレラの噂をして、もういい加減におしまいになりそうなものだなどと言っておりますと、縁に腰をかけていたお富がこんなことを言い出しました。
「でも、奥さん、ここらにはコレラになりたいと言っている人があるそうでございますよ。」
「まあ、馬鹿なことを……。」と、母は思わず笑い出しました。「誰がコレラになりたいなんて……。冗談にも程がある。」
「いいえ、それが本当らしいのでございますよ。この右の横町の飯田という家《うち》を御存じでしょう。」
と、お富はまじめで言いました。「あの家の御新造《ごしんぞ》ですよ。」
この時代には江戸のなごりで、御新造《ごしんぞ》という詞《ことば》がまだ用いられていました。それは奥さんの次で、おかみさんの上です。つまり奥さん、御新造さん、おかみさんという順序になるので、飯田
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