から、あるいは奥の方へ逃げ込んでしまったのかも知れません。
 今日の我れわれから考えますと、どうもそれは主人と野水の幻覚らしく思われるのですが、一概にそうとも断定のできないのは、ここにまた一つの事件があるのです。前にも申した通り、文阿は十蟹の図をかきかけて出て行ったので、その座敷はそのままになっていたのですが、あとであらためてみると、絵具皿は片端から引っくり返されて、九匹の蟹をかいてある大幅の上には墨や朱や雌黄《しおう》やいろいろの絵具を散らして、蟹が横這いをしたらしい足跡がいくつも残っていました。してみると、かの二匹の蟹が文阿のあき巣へ忍び込んで、その十蟹の絵絹の上を踏み荒らしたように思われます。
 それから一週間ほど過ぎて、文阿と半兵衛の死骸が浮きあがりました。ふたりともに顔や身体の内を何かに啖《く》い取られて、手足や肋《あばら》の骨があらわれて、実にふた目とは見られない酷《むご》たらしい姿になっていたそうです。漁師たちの話では、おそらく蟹に啖われたのであろうということでした。
 これでともかくも二人の死骸は見付かりましたが、かの小僧だけは遂にゆくえが判りません。誰に訊いても、ここらでそんな小僧の姿を見た者はないから、多分ほかの土地の者であろうというのです。大方そんなことかも知れません。まさかに川や海の中から出て来たわけでもありますまい。
 増右衛門はその以来、決して蟹を食わないばかりか、掛軸でも屏風でも、床の間の置物でも、莨《たばこ》入れの金物でも、すべて蟹にちなんだようなものはいっさい取捨ててしまいました。それでも薄暗い時などには、二匹の蟹が庭先へ這い出して来たなどと騒ぎ立てることがあったそうです。海の蟹が縁の下などに長く棲んでいられるはずはありませんから、これは勿論、一種の幻覚でしょう。
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   一本足《いっぽんあし》の女《おんな》


     一

 第九の男は語る。

 わたしは千葉の者であるが、馬琴《ばきん》の八犬伝でおなじみの里見の家は、義実《よしざね》、義|成《なり》、義|通《みち》、実尭《さねたか》、義|豊《とよ》、義|尭《たか》、義|弘《ひろ》、義|頼《より》、義|康《やす》の九代を伝えて、十代目の忠義《ただよし》でほろびたのである。それは元和元年、すなわち大坂落城の年の夏で、かの大久保|相模守《さがみのかみ》の姻戚関係から滅亡の禍いをまねいたのであると伝えられている。
 大久保相模守|忠隣《ただちか》は相州小田原の城主で、徳川家の譜代大名のうちでも羽振りのよい一人であったが、一朝にしてその家は取潰されてしまった。その原因は明らかでない。かの大久保|石見守《いわみのかみ》長安の罪に連坐したのであるともいい、または大坂方に内通の疑いがあったためであるともいい、あるいは本多佐渡守|父子《おやこ》の讒言によるともいう。いずれにしても里見忠義は相模守忠隣のむすめを妻にしていた関係上、舅《しゅうと》の家がほろびると間もなく、彼もその所領を召し上げられて、伯耆《ほうき》の国に流罪を申付けられ、房州の名家もその跡を絶ったのである。里見の家が連綿としていたら、八犬伝は世に出なかったに相違ない。馬琴はさらに他の題材を選ばなければならないことになったであろう。
 馬琴の口真似をすると、閑話休題《あだしごとはさておき》、これからわたしが語ろうとするのは、その里見の家がほろびる前後のことである。忠義の先代義康は安房《あわ》の侍従と呼ばれた人で、慶長《けいちょう》八年十一月十六日、三十一歳で死んでいる。その三周忌のひと月かふた月前のことであるというから、慶長十年の晩秋か初冬の頃であろう。
 当代の忠義に仕えている家来のうちに、百石取りの侍に大滝庄兵衛というのがあった。百石といっても、実際は百俵であったそうだが、この百石取りが百人あって、それを安房の百人衆と唱え、里見の部下ではなかなか幅が利いたものであるという。その庄兵衛が夫婦と中間《ちゅうげん》との三人づれで館山《たてやま》の城下の延命寺へ参詣に行った。延命寺は里見家の菩提寺である。その帰り路に、夫婦は路傍にうずくまっている一人の少女をみた。
 少女は乞食であるらしく、夫婦がここへ通りかかったのを見て、無言で土に頭を下げると、夫婦も思わず立ちどまった。仏参の帰りに乞食をみて、夫婦はいくらかの銭《ぜに》を恵んでやろうとしたのではない。今度の忠義の代になってから、乞食に物を恵むことを禁じられていた。乞食などは国土の費《つい》えである。ひっきょうかれらに施し恵む者があればこそ、乞食などというものが殖えるのであるから、ひと粒の米、一文の銭もかれらに与えてはならぬと触れ渡されていた。庄兵衛夫婦も勿論その趣旨に従わなければならないのであるから、今や自分たちの前に頭を下げて
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