てはいられないので、蟹はもう一生たべませんと、与茂四郎の前で誓って帰ったのですが、どうも安心が出来ません。といって、どうすればよいということも判らないのですから、家内の者に向ってどういう注意を与えることも出来ない。それでも祖母だけには与茂四郎から注意されたことをささやいて、当分は万事に気をつけろと言い聞かせたそうです。
一方の半兵衛と伊助は早朝に出て行ったままで、午頃《ひるごろ》になっても帰らないので、これもどうしたかと案じていると、九つ半――今の午後一時頃だそうでございます――頃になって、伊助ひとりが青くなって帰って来ました。半兵衛はどうしたと訊いても、容易に返事が出来ないのです。その顔色といい、その様子をみて、みんなはまたぎょっとしました。
三
ぼんやりしている伊助を取巻いて、大勢がだんだん詮議すると、出先でこういう事件が出来《しゅったい》していることが判りました。
半兵衛はゆうべ家をかけ出して、ふだんから懇意にしている漁師の家をたずねたのですが、どこの家にも、蟹がない。いばら[#「いばら」に傍点]蟹や高足蟹があっても、かざみ[#「かざみ」に傍点]がない。それからそれへと聞きあるいて、だんだんに北の方へ行って、路ばたに立っている小僧を見つけたのでした。
それですから、きょうも伊助と二人連れで、ともかくも北の方角――出雲崎の方角でございます――を指して尋ねて行きましたが、ゆうべの小僧らしい者の姿を見ない。知らず識らずに進んで鯖石川《さばいしがわ》の岸の辺まで来ますと、御承知かも知れませんが、この川は海へそそいでおります。その海寄りの岸のところに突っ立って水をながめている小僧、そのうしろ姿がどうもそれらしく思われるので、半兵衛があわてて追っかけました。
一方は海、一方は川ですから、ほかに逃げ道もないと多寡《たか》をくくって、伊助はあとからぶらぶら行きますと、真っ先に駈けて行った半兵衛はそのうしろから掴まえて、なにかひと言ふた言いっていたかと思ううちに、どうしたのかよく判りませんが、半兵衛はその小僧にひきずられたように水のなかへはいっていってしまったのです。
それをみて、伊助もびっくりして、これも慌ててその場へ駈け付けましたが、半兵衛も小僧も、水に呑まれたらしく、もうその姿がみえないのです。いよいよ驚いてうろたえて、近所の漁師の家へ駈け込んで、こういうわけで山形屋の店の者が沈んだから早く引揚げてくれと頼みますと、わたくしの店の名はここらでも皆知っていますので、すぐに七、八人の者を呼び集めて、水のなかを探してくれたのですが、二人ともに見付からない。なにしろ川の落ち口で流れの早いところですから、あるいは海の方へ押しやられてしまったかも知れないというので、伊助も途方に暮れてしまいましたが、今更どうすることも出来ません。ともかくも出来るだけは探してくれと頼んでおいて、そのことを注進するために引っ返して来たというわけです。
家の者もそれを聴いて驚きました。取分けて主人の増右衛門はかの与茂四郎から注意されたこともありますので、いよいよ胸を痛めて、早速ひとりの番頭に店の者五、六人を付けて、伊助と一緒に出してやりました。画家の文阿も出て行きました。
前にも申上げた通り、わたくしの家には俳諧師の野水と画家の文阿が逗留していまして、野水はそのとき近所へ出ていて、留守でした。文阿は自分の座敷にあてられた八畳の間で絵をかいていました。文阿は文晃《ぶんちょう》の又弟子とかにあたる人で、年は若いが江戸でも相当に名を知られている画家だそうです。
主人は蟹が好きなので、逗留中に百蟹の図をかいてくれと頼んだところが、文阿は自分の未熟の腕前ではどうも百蟹はおぼつかない。せめて十蟹の図をかいてみましょうというので、このあいだからその座敷に閉じ籠って、いろいろの蟹を標本にして一心にかいているのでした。その九匹はもう出来あがって、残りの一匹をかいている最中にこの事件が出来《しゅったい》したので、文阿は絵筆をおいて起《た》ちました。
「先生もお出でになるのですか。」と、増右衛門は止めるように言いました。
「はあ。どうも気になりますから。」
そう言い捨てて、文阿は大勢と一緒に出て行ってしまいました。しいて止めるにも及ばないので、そのまま出してやりますと、それを聞き伝えて近所からも、また大勢の人がどやどやと付いてゆく。漁師町からも加勢の者が出てゆく。どうも大変な騒ぎになりましたが、主人はまさかに出てゆくわけにもまいりません。家にいてただ心配しているばかりです。
祖母をはじめ、ほかの者はみな店先に出て、そのたよりを待ちわびていますと、そこへかの坂部与茂四郎という人が来ました。途中でその噂を聴いたとみえまして、半兵衛の一件をもう知っているらしい
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