人の老人が来て、しずかに他の人たちと話していた。四人のうちでは比較的支那語をよくするT君がその通訳にあたっていて、僕たちに説明してくれた。
「この老人はこの家に三十年も奉公している男で、ほかにも四、五人の奉公人がいるそうだ。このあいだから眼のまえで戦争がはじまっているので、家内の者はみな奥にかくれている。したがって、別段おかまい申すことは出来ないが、茶と砂糖はある。裏の畑に野菜がある。泊りたければここへ自由にお泊りなさいと、ひどく親切に言ってくれるのだ。泊めてもらおうじゃないか。」
「もちろんだ。多謝《トーシェー》、多謝《トーシェー》。」と、僕たちは口をそろえてかの老人に感謝した。
 老人は笑いながら立去った。あとでT君は畑にどんなものがあるか見て来ようと言って出たが、やがて五、六本の見事な唐もろこしをかかえ込んで来た。それはいいものがあると喜んで、M君がまた駈け出して取りに行った。家の土間には土竈《どべっつい》が築いてあるので、僕たちはその竈《かまど》の下に高粱《コウリャン》の枯枝を焚いて唐もろこしをあぶった。めいめいの雑嚢の中には食塩を用意していたので、それを唐もろこしに振りかけて食うと、さすがは本場だけに、その旨い味は日本の唐もろこしのたぐいでない。
 僕たちは代るがわるに畑からそれを取って来てむさぼり食らっていると、かの老人は十五六の少年に湯わかしを持たせて、自分は紙につつんだ砂糖と茶を持って来てくれたので、僕たちは再び多謝《トーシェー》をくり返して、すぐに茶をこしらえる支度をして、その茶に砂糖を入れてがぶがぶと飲みはじめた。唐もろこしを腹いっぱいに食い、さらにあたたかい茶を飲んで、大いに元気を回復したのを、老人はにこにこしながら眺めていたが、やがてT君にむかって小声で言い出した。この一行のうちに薬を持っている人はないかというのである。
 実は主人夫婦のあいだにことし十七になる娘があって、それが先頃から病気にかかっている。ここらでは遼陽の城内まで薬を買いに行かなければならないのであるが、この頃は戦争のために城内と城外との交通が絶えてしまったので、薬を求める法がない。日本の大人《たいじん》らのうちに、もし薬を持っている人があるならば、どうかお恵みにあずかりたいと彼は懇願するように言った。
 彼が我れわれに厚意を見せたのは、そういう下ごころがあったためであることが判ってみると、我れわれの感謝も幾分か割引をしなければならないことになるが、その事情をきけば全く気の毒でもある。由来、ここらの人は日本人をみな医者か薬屋とでも心得ているのか、僕たちの顔を見ると、とかくに病気を診察してくれとか、薬をくれとか言う。今までにもその例はたびたびあるので、この老人の無心も別にめずらしいとは思わなかったが、病人の容体をよく聴かないで無暗に薬をやることは困る。現に海城の宿舎にいたときにも、胃腸病の患者に眼薬の精※[#「金+奇」、第3水準1−93−23]水《せいきすい》をやって、あとでそれに気がついて、大いに狼狽して取戻したことがある。その失敗にかんがみて、その後は確かにその病人を見届けない限りは、うかつに薬をあたえない事にしていた。
 T君はその事情を彼に話して、ともかくもその病人に一度逢わせてもらいたいと言うと、老人はすこぶる難儀らしい顔をして、しばらく思い煩《わずら》っているらしかったが、こっちの言い分にも無理はないので、それでは主人とも一応相談してみようということになって、彼は他の少年と一緒に奥へ引っ返して行った。
 僕たちはもちろん医者ではないが、それでもでたらめに薬をやるよりは、一応その本人の様子を見て、親しくその容体をきいた上で、それに相当しそうな薬をあたえた方が安全である。殊にその当時は僕たちもまだ若かったから、その病人が十七の娘であるというので、どんな女か見てやりたいというような一種の興味も伴っていたのであった。
「どんな女だろう。まだ若いんだぜ。」
「一体なんの病気だろう。」
「婦人病だと困るぜ。そんな薬は誰も用意して来なかったからな。」
「悪くすると肺病だぜ。支那では癆《ろう》とかいうのだそうだ。」
 そんな噂をしているうちに、僕はかの「家有妖」の一件を思い出した。
「門の前の井戸で水を汲んでいた男……あの男の話によると、ここの家《うち》には化物が出るか、なにかの祟りがあるか、なにしろ怪しい家らしいぜ。あの男は家有妖と書いて見せたよ。」
「むむう。」と、ほかの三人も首をかしげた。
「それじゃあ、その娘というのも何かに取憑《とりつ》かれてでもいるのかも知れないな。」とT君は言った。
「そうなると、我れわれの薬じゃあ療治は届かないぞ。」とM君は笑い出した。
 僕たちも一緒に笑った。ふだんならばともかくも、いわゆる砲煙弾雨《ほうえん
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