ありげに眉をよせて、張の顔をじっと眺めていたが、やがて詞《ことば》をあらためて訊いた。
「おまえの家では何かの神を祭っているか。」
「いえ、一向に不信心でございまして、なんの神ほとけも祭っておりません。」
「どうも不思議だな。」
将軍のひたいの皺はいよいよ深くなった。そのうちに何を思い付いたか、かれはまた訊いた。
「おまえの妻はどんな女だ。」
突然の問いに、張訓はいささか面喰らったが、これは隠すべき筋でもないので、正直に自分の妻の年頃や人相などを申立てると、将軍は更に訊いた。
「そうして、右の眉の下に大きいほくろ[#「ほくろ」に傍点]はないか。」
「よく御存じで……。」と、張訓もおどろいた。
「むむ、知っている。」と、将軍は大きくうなずいた。「おまえの妻はこれまで、二度もおれの枕もとへ来た。」
驚いて、呆れて、張訓はしばらく相手の顔をぼんやりと見つめていると、将軍も不思議そうにその子細を説明して聞かせた。
「実は半年ほど前に、おまえ達を呼んでおれの扇子をやったことがある。その明くる晩のことだ。ひとりの女がおれの枕もとへ来て、昨日張訓に下さいました扇子は白扇でございました。どうぞ御直筆のものとお取換えをねがいますと、言うかと思うと夢がさめた。そこで、念のためにお前をよんで訊いてみると、果してその通りだという。そのときにも少し不思議に思ったが、まずそのままにしておくと、またぞろその女がゆうべも来て、先日張訓に下さいました鎧は朽ち破れていて物の用にも立ちません。どうぞしかるべき品とお取換えをねがいますと言う。そこで、おまえに訊いてみると、今度もまたその通りだ。あまりに不思議がつづくので、もしやと思って詮議すると、その女はまさしくお前の妻だ。年ごろといい、人相といい、眉の下のほくろ[#「ほくろ」に傍点]までが寸分|違《たが》わないのだから、もう疑う余地はない。おまえの妻はいったいどういう人間だか知らないが、どうも不思議だな。」
子細をきいて、張訓もいよいよ呆れた。
「まったく不思議でございます。よく詮議をいたしてみましょう。」
「いずれにしても鎧は換えてやる。これを持ってゆけ。」
将軍から立派な鎧をわたされて、張訓はそれをかかえて退出したが、頭はぼんやりして半分は夢のような心持であった。三年越し連れ添って、なんの変ったこともない貞淑な妻が、どうしてそんな事をしたのか。さりとて将軍の詞に嘘があろうとは思われない。家へ帰る途中でいろいろ考えてみると、なるほど思い当ることがある。半年前の扇子の時にも、今度の鎧の問題にも、妻はいつでも先を見越したようなことを言って自分を慰めてくれる。それがどうもおかしい。たしかに不思議だ。これは一と詮議しなければならないと、張訓は急いで帰ってくると、妻はその鎧を眼早く見つけてにっこり笑った。
その可愛らしい笑い顔は鬼とも魔とも変化《へんげ》とも見えないので、張訓はまた迷った。しかし彼のうたがいはまだ解けない。殊に将軍の手前に対しても、なんとかこの解決を付けなければならないと思ったので、かれは妻を一と間《ま》へ呼び込んで、まずその夢の一条を話すと、妻も不思議そうな顔をして聞いていた。そうして、こんなことを言った。
「いつかの扇子のときも、今度の鎧についても、あなたは大層心もちを悪くしておいでのようでしたから、どうかしてお心持の直るようにして上げたいと、わたくしも心から念じていました。その真心が天に通じて、自然にそんな不思議があらわれたのかも知れません。わたくしも自分の念がとどいて嬉しゅうございます。」
そう言われてみると、夫もその上に踏み込んで詮議の仕様もない。唯わが妻のまごころを感謝するほかはないので、結局その場はうやむやに済んでしまったが、張訓はどうも気が済まない。その後も注意して妻の挙動をうかがっているうちに、前にも言う通りのわけで世の中はだんだんに騒がしくなる。将軍も軍務に忙しいので、張訓の妻のことなどを詮議してもいられなくなった。張訓もまた自分の務めが忙しいので、朝は早く出て、夕はおそく帰る。こうして半月あまりを暮らしていると、五月にはいって梅雨が毎日ふり続く。それも今日はめずらしく午後から小やみになって、夕方には薄青い空の色がみえて来た。
張訓も今日はめずらしく自分の仕事が早く片付いて、まだ日の暮れ切らないうちに帰ってくると、いつもはすぐに出迎えをする妻がどうしてか姿をみせない。内へはいって庭の方をふとみると、庭の隅には大きい柘榴《ざくろ》の木があって、その花は火の燃えるように紅く咲きみだれている。妻はその花の蔭に身をかがめて、なにか一心にながめているらしいので、張訓はそっと庭に降り立って、ぬき足をして妻のうしろに近寄ると、柘榴の木の下には大きいがま[#「がま」に傍点]が傲然としてう
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