―そんな想像はみんなはずれて、彼はむかし通りの五分刈り頭で、田舎仕立てながらも背広の新しい洋服を着て、どこにも変った点はちっとも見いだされなかった。ただ鼻の下にうすい髯《ひげ》をたくわえたのが少しく彼をもったいらしく見せているだけで、彼はやはり学生時代とおなじように若々しい顔の持主であった。
「やあ。」
「やあ。」
こんな簡単な挨拶が交換された後に、彼は自分のそばに立っている小柄の娘を僕に紹介した。それが彼の妹の伊佐子というので、年は十九であるそうだが、いかにも雪国の女を代表したような色白のむすめで、可愛らしい小さい眼と細い眉とをもっていた。
「いい妹さんだね。」
「むむ。母がいなくなってから、家《うち》のことはみんな此女《これ》に頼んでいるんだ。」と、赤座はにこにこしながら言った。
一緒に電車に乗って僕の家まで来るあいだにも、この兄妹が特別の親しみをもっているらしいことは僕にもよく想像された。それから約一カ月も僕の家に滞在して、教社の用向きや東京見物に春の日を暮らしていたが、たしか四月の十日と記憶している。僕は兄妹を誘って向島の花見に出かけると、それほどの強い降りでもなかったが、その途中から俄雨に出逢ったので、よんどころなしに或る料理屋へ飛び込んで、二時間ばかり雨やみを待っているあいだに、赤座は妹の身の上についてこんなことを話した。
「こんな者でも相応なところから嫁に貰いたいと申込んで来るが、何しろ此女《これ》がいなくなると僕が困るからね。この女《こ》も僕の家内がきまるまでは他へ縁付かないと言っている。ところで、僕の家内というのがまたちょっと見つからない。いや、今までにも二、三人の候補者を推薦されたが、どうも気に入ったのがないんでね。なにしろ、僕の家内という以上、どうしても同じ信仰をもった者でなければならない。身分や容貌《きりょう》などはどうでもいいんだが、さてその信仰の強い女というのが容易に見あたらないので困っている。」
彼は最初の煩悶からまったく解脱《げだつ》して、今ではその教義に自分の信仰を傾けているらしかった。しかし、とうてい教化の見込みはないと思ったのか、僕に対しては、その教義の宣伝を試みたことはなかった。東京の桜がみんな青葉になった頃に、赤座兄妹は僕に見送られて上野を出発した。
それぎりで、僕はこの兄妹に出逢うことが出来なかったのか、それとも重
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