平助は座頭の死骸を近所の寺へ葬った。勿論、かの針も一緒にうずめた。平助は正直者であるので、座頭が形見の小判五枚には手を触れず、すべて永代《えいたい》の回向《えこう》料としてその寺に納めてしまった。
それから六年、かの座頭がこの渡し場に初めてその姿をあらわしてから十一年目の秋である。八月の末に霖雨《りんう》が降りつづいたので、利根川は出水して沿岸の村々はみな浸された。平助の小屋も押し流された。それがために房川の船渡しは十日あまりも止っていたが、九月になって秋晴れの日がつづいたので、ようやく船を出すことになると、両岸の栗橋と古河とにつかえていた上り下りの旅人は川のあくのを待ちかねて、さきを争って一度に乗り出した。
「あぶねえぞ、気をつけろよ。水はまだほんとうに引いていねえのに、どの船もみんないっぱいだからな。」
平助じいさんは岸に立ってしきりに注意していると、古河の方から漕ぎ出した一艘の船はまだ幾間も進まないうちに、強い横波のあおりをうけて、あれという間に転覆した。平助のいう通り水はまだほんとうに引いていないので、船頭どものほかにも村々の若い者らが用心のために出張《でば》っていたので、それを見ると皆ばらばらと飛び込んで、あわや溺れそうな人々を見あたり次第に救い出して、もとの岸へかつぎあげた。手当を加えられて、どの人もみな正気にかえったが、そのなかでただひとりの侍はどうしても生きなかった。身なりも卑しくない四十五六の男で、ふたりの供を連れていた。
供の者はいずれも無事で、その二人の口から、かの溺死者の身の上が説明された。かれは奥州の或る藩中の野村彦右衛門という侍で、六年以前から眼病にかかって、この頃ではほとんど盲目同様になった。江戸に眼科の名医があるというのを聞いて、主君へも届け済みの上で、その療治のために江戸へのぼる途中、ここで測らずも禍《わざわ》いに逢ったのである。盲目同様であるから、道中は駕籠に乗せられて、ふたりの家来にたすけられて来たのであるが、この場合、相当に水練の心得もあるはずの彼がどうして自分ひとり溺死したかと、家来も怪しむように語った。
それとはまたすこし違った意味で、平助じいさんは彼の死を怪しんだ。ほかの乗合いがみんな救われた中で、野村彦右衛門という盲目の侍だけがどうして溺れ死んだか、それを思うと、平助はまたにわかにぞっとした。彼は供の家来にむか
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