うも食う気にはなれないので、いつもそれを眼の前の川へ投げ込んでしまった。
 一日に一尾、生きた魚の眼を突き潰しているばかりでなく、さらに平助をおどろかしたのは、座頭がその魚を買う代金として五枚の小判を彼に渡したことである。午飯《ひるめし》に握り飯一つを貰っていた頃には、毎日一文ずつの代を支払っていたが、小屋に寝起きをするようになってからは、平助と一つ鍋で三度の飯を食っていながら、座頭は一文の金をも払わなくなった。勿論、平助の方でも催促しなかった。座頭は今になってそれを言い出して、お前さんにはたくさんの借りがある。ついてはわたしの生きているあいだはこの金で魚を買って、残った分は今までの食料として受取ってくれと言った。あしかけ二年の食料といったところで知れたものである。それに対して五枚の小判を渡されて、平助は胆《きも》をつぶしたが、ともかくもその言う通りにあずかっておくと、座頭は半月ばかりの後にいよいよ弱り果てて、きょうかあすかという危篤の容体になった。
 旧暦の二月、あしたは彼岸の入りというのに、ことしの春の寒さは身にこたえて、朝から吹き続けている赤城颪《あかぎおろし》は、午過ぎから細かい雪さえも運び出して来た。時候はずれの寒さが病人に障ることを恐れて、平助は例よりも炉の火を強く焚いた。渡しが止まって、ほかの船頭どもは早々に引揚げてしまうと、春の日もやがて暮れかかって、雪はさのみにも降らないが、風はいよいよ強くなった。それが時々にごうごうと吼《ほ》えるように吹きよせて来ると、古い小屋は地震のようにぐらぐらと揺れた。
 その小屋の隅に寝ている座頭は弱い声で言った。
「風が吹きますね。」
「毎日吹くので困るよ。」と、平助は炉の火で病人の薬を煎じながら言った。「おまけに今日はすこし雪が降る。どうも不順な陽気だから、お前さんなんぞは尚さら気をつけなければいけないぞ。」
「ああ、雪が降りますか。雪が……。」と、座頭は溜息をついた。「気をつけるまでもなく、わたしはもうお別れです。」
「そんな弱いことを言ってはいけない。もう少し持ちこたえれば陽気もきっと春めいて来る。暖かにさえなれば、お前さんのからだも、自然に癒るにきまっている。せいぜい今月いっぱいの辛抱だよ。」
「いえ、なんと言って下すっても、わたしの寿命はもう尽きています。しょせん癒るはずはありません。どういう御縁か、お前さん
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