ったが、それもまだ帰らない。その蟹の顔を見ないうちは迂濶《うかつ》にほかのお料理を運び出すことも出来ないので、まことに困っていると、お杉は顔をしかめて話しました。
「まったく困るねえ。」と、祖母もいよいよ眉をよせました。ほかにも相当の料理が幾品も揃っているのですから、いっそ蟹だけをはぶいたらどうかとも思ったのですが、なにしろ父の増右衛門が大好きの物ですから、迂濶にはぶいたら機嫌を悪くするに決まっているので、祖母もしばらく考えていますと、奥の座敷で手を鳴らす声がきこえました。
祖母は引っ返して奥へゆきますと、増右衛門は待ちかねたように廊下に出て来ました。
「おい、なにをしているのだ。早くお膳を出さないか。」
催促されたのを幸いに、祖母は蟹の一件をそっと訴えますと、増右衛門はちっとも取合いませんでした。
「なに、一匹や二匹の蟹が間に合わないということがあるものか。町になければ浜じゅうをさがしてみろ、今夜はうまい蟹を御馳走いたしますと、お客さまたちに吹聴《ふいちょう》してしまったのだ。蟹がなければ御馳走にはならないぞ。」
こう言われると、もう取付く島もないので、祖母もよんどころなしに台所へまた引っ返して来ると、台所の者はいよいよ心配して、かの半兵衛が帰って来るのを今か今かと首をのばして待っているうちに、時刻はだんだん過ぎてゆく。奥では焦《じ》れて催促する。
誰も彼も気が気でなく、ただうろうろしているところへ、半兵衛が息を切って帰ってきました。それ帰ったというので、みんながあわてて駈け出してみると、半兵衛はひとりの見馴れない小僧を連れていました。小僧は十五六で、膝っきりの短い汚れた筒袖を着て、古い魚籠《さかなかご》をかかえていました。それをみて皆まずほっとしたそうです。
その魚籠のなかには、三匹の蟹が入れてあったので、こっちに準備してある七匹の蟹と引合せて、それに似寄りの大きさのを一匹買おうとしたところが、その小僧は遠いところからわざわざ連れて来られたのだから、三匹をみんな買ってくれというのです。
何分こっちも急いでいる場合、かれこれと押問答をしてもいられないので、その言う通りにみな買ってやることにして、値段もその言う通りに渡してやると、小僧は空《から》の籠をかかえてどこかへ立去ってしまいました。
「まずこれでいい。」
みなも急に元気が出て、すぐにその蟹を茹《
前へ
次へ
全128ページ中79ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング