のそばへ立ち寄って、そっと水の上を覗いてみたが、男の顔はもう浮かんでいなかった。おそよは言い知れない強い失望を感じて、すごすごとそこを立去ったが、あくる日ふたたびその井戸端を通ると、かれは今日もその上にふたつの蝶のもつれて飛んでいるのを見た。蝶はどこへか姿を隠してしまったが、おそよはその蝶のゆくえを追うようにきょうも井戸のなかを覗いてみると、二つの顔はまたあらわれた。おそよはいつまでも飽かずにその顔を見つめていた。
 それが始まりで、おそよは一日のうちに幾たびかその古井戸をのぞきに行った。そうしているうちに、明るい真昼には男の顔が見えなくなって、彼らの美しい顔は夜でなければ水の上に浮かばないようになった。夜ならば月夜はもちろん、闇の夜でも男の顔ははっきりと見えて、宵のうちよりも真夜中の方が一層あざやかに浮き出していた。
 おそよがこのごろ夜ふけに寝床を抜け出してゆく子細はそれで判ったが、妹のおつぎにはまだ十分に信じられなかったので、かれは姉にたのんで一緒に連れて行ってもらうことになった。古井戸の水の上には果して二つの白い顔が映っていて、いずれも絵にかいたお公家《くげ》さまのような、ここらではかつて見たこともない優美な若い男たちであったので、おつぎも暫くは夢のような心持で、その顔を見つめていた。そうして、姉が毎晩かかさずにここへ忍んで来るのも、なるほど無理はないとうなずかれた。
 井戸の水に映る顔は二つで、今までは姉ひとりがそれを眺めていたのであるが、その後は二つの顔に向いあう女の顔も二つになつた。姉妹は毎夜誘いあわせて、その井戸端へ通いつづけていたのである。勿論、その顔を覗くだけのことで、ほかにはどうにも仕様がないのであるが、かの猿猴《えんこう》が水の月をすくうとおなじように、この姉妹も水にうつる二つの美しい顔をすくい上げたいような心持で、夜のふけるのを待ちかねて毎晩毎晩忍んで行った。そうして、身も痩せるばかりの果敢《はか》ない、遣瀬《やるせ》ない思いに悩みつづけているのであった。

     二

 吉左衛門夫婦はさらに姉娘のおそよを呼出して詮議すると、妹がもういっさいを白状してしまったのであるから、姉も今更つつみ隠すことは出来なかった。おそよも親たちの前で正直に何もかも打明けたが、その申口はおつぎとちっとも変らないので、吉左衛門夫婦ももう疑う余地はなかった。念の
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