く人で、娘も進んで行くというなら、おれは喜んで承知するよ。昔と今とは世の中が違うからな。
柳 お前さんがそう云ってくれれば、わたしも安心だけれど……。
李中行 それだから安心していろよ。はははははは。
(正面の扉をたたく音。)
柳 阿香が帰ったのかしら。(考える。)そんなら戸をたたく筈もないが……。
李中行 それとも、せがれが遣って来たのかな。
(柳は立って扉をあけると、旅すがたの男一人入り来る。男は四十余歳にて、鬚あり。)
柳 (すかし視て。)おまえさんは誰だね。
旅の男 おかみさんはもう私を見忘れましたかね。
柳 はてね。そう云えば、なんだか見たような顔でもあるが……。
旅の男 (笑いながら。)御亭主は覚えていなさるでしょうね。
李中行 (立ちあがって覗く。)成程、見たことがあるようだが……。ちょっと思い出せないな。
旅の男 (しずかに。)わたしは預け物をうけ取りに来たのです。
李中行 (思い出して。)ああ、判った、判った。おまえさんは……あの人だ、あの人だ。
旅の男 ここの家《うち》に四五日御厄介になったことのある旅の者です。三年|後《のち》の八月十五夜の晩には、必ず再びたずねて来ますからと云って、小さい箱をあずけて行った筈ですが……。
柳 ああ、わたしも思い出した。三年前の雨のふる晩に、泊めてくれと云って来た人だ。
李中行 見識らない人ではあるし、夜は更けている。むやみに泊めるわけには行かないと一旦は断ったのを、お前さんは無理に泊めてくれと云って、とうとうこの土間の隅に寝込んでしまったのだ。
柳 おまけにその明くる朝から病気になったと云い出して、私達もどんなに心配したか知れやあしない。
旅の男 まったくあの時には飛んだ御厄介になりました。それから四五日もここの家に寝かして貰って、再び元のからだになったのです。(頭を下げる。)今晩あらためてお礼を申上げます。
李中行 わたしの方では忘れていたが、成程そのときに、三年|後《のち》の十五夜の晩には再びたずねて来ると云ったようだ。
旅の男 その約束の通りに、今夜再び来ました。
李中行 そう聞くと、なんだか懐かしいようでもある。まあ、まあ、ここへ掛けなさい。
(旅の男は会釈しただけで、やはり立っている。)
李中行 そこでお前さんは、あれから三年の間、どこを歩いていなすったのだ。
旅の男 それからそれへと旅の空をさまよっ
前へ 次へ
全35ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング