それやこれやを考えると、どうしても纏まった金をこしらえて置かないと安心が出来ないのだ。
旅の男 御もっともです。
李中行 お前さんも尤もだと思うなら、私があらためて頼みます。幸い今夜は十五夜で、酒も肉も用意してあるから、それを青蛙神にそなえて、わたしに纏まった金を授けて下さるように祈っては下さるまいか。
旅の男 わたしが祈るのではない。おまえさんが自分で祈るのです。
李中行 では、わたしに祈らせて下さい。
柳 もし、お前さん……。(再び袖をひく。)
李中行 まあ、いいと云うのに……。(男に。)もし、どうぞ願います。
旅の男 本来ならば唯で拝ませることは出来ない。私にも相当のお賽銭をそなえて貰わなければ困るのだが、余人とちがって、お前さん達には色々の御世話にもなっているから、唯で拝ませてあげましょう。
李中行 (熱心に。)拝ませて下さるか。ありがたい、有難い。
柳 (不安らしく。)お前さん、そんなことは……。
李中行 うるさいな。まあ、なんでもいいから俺に任かせて置け。
(男は腰につけたる巾着より鍵をとり出して、箱の錠をあける。そうして、口のうちにて何か呪文を唱えると、箱のうちより三足の青い蝦蟆一匹が跳り出でて、卓のまん中にうずくまる。李の夫婦は驚異の眼をみはって眺める。)
柳 あ、この蝦蟆は生きているようだ。
旅の男 生きているのです。
李中行 いくら蝦蟆でも、この箱に這入ったままで、二年も三年も飲まず喰わずに、よく生きていられたものだな。
旅の男 さあ、なんなりともお祈りなさい。
李中行 すぐに祈ってもいいのですか。
旅の男 併しその祈祷の文句を他人に知られてしまっては奇特がありません。誰にも聞えないように、口のうちで静《しずか》にお祈りなさい。判りましたか。
李中行 はい、はい。判りました。わかりました。
(李は月を祭りし酒と肉を持ち来りて、青蛙の前に供える。柳はやはり不安らしく眺めている。)
李中行 これで宜しいのですか。
旅の男 (うなずく。)よろしいのです。
(李は土間にひざまずきて、口のうちにて何事かを祈る。下のかたより李の長男中二、二十二三歳、洋服に中折れ帽をかぶりて足早に出で来りしが、来客ありと見て少しく躊躇し、窓より内を窺っている。李はやがて拝し終りて立つ。)
旅の男 済みましたか。
李中行 (頭を下げる。)はい。済みました。
(男は再び呪文を唱う
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