ョン・ヒンクマン氏を大いに恐れているがためであった。かの紳士は僕のよい友達ではあるが、彼にたいしておまえの姪《めい》をくれと言い出すのは、僕以上の大胆な男でなければ出来ないことであった。彼女は主としてこの家内いっさいのことを切り廻している上に、ヒンクマン氏がしばしば語るところによれば、氏は彼女を晩年の杖はしらとも頼んでいるのであった。この問題について、マデライン嬢が承諾をあたえる見込みがあるなら断然それを切り出すだけの勇気を生じたでもあろうが、前にもいう通りの次第で、僕は一度も彼女にそれを打ち明けたことはなく、ただそれについて、昼も夜も――ことに夜は絶えず思い明かしているだけのことであった。
ある夜、僕は自分の寝室にあてられた広びろしい一室の、大きいベッドの上に身を横たえながら、まだ眠りもやらずにいると、この室内の一部へ映《さ》し込んできた新しい月のぼんやりした光りによって、主人のヒンクマン氏がドアに近い大きい椅子に沿うて立っているのを見た。
僕は非常に驚いたのである。それには二つの理由がある。第一、主人はいまだかつて僕の部屋へ来たことはないのである。第二、彼はけさ外出して、幾日間は帰宅しないはずである。それがために、僕は今夜マデライン嬢とあいたずさえて、月を見ながら廊下に久しく出ていることが出来たのであった。今ここにあらわれた人の姿は、いつもの着物を着ているヒンクマン氏に相違なかったが、ただその姿のなんとなく朦朧《もうろう》たるところがたしかに幽霊であることを思わせた。
善良なる老人は途中で殺されたのであろうか。そうして、彼の魂魄《こんぱく》がその事実を僕に告げんとして帰ったのであろうか。さらにまた、彼の愛する――の保護を僕に頼みに来たのであろうか。こう考えると、僕の胸はにわかにおどった。
その瞬間に、かの幽霊のようなものは話しかけた。
「あなたはヒンクマン氏が今夜帰るかどうだか、ご承知ですか」
彼は心配そうな様子である。この場合、うわべに落ち着きを見せなければならないと思いながら、僕は答えた。
「帰りますまい」
「やれ、ありがたい」と、彼は自分の立っていたところの椅子に倚《よ》りながら言った。「ここの家《うち》に二年半も住んでいるあいだ、あの人はひと晩も家《うち》をあけたことはなかったのです。これで私がどんなに助かるか、あなたにはとても想像がつきます
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