いる様子も消えていって、さらに平静な、希望ある表情が浮かんできたのであった。
 この間に、コスモはどうであったかというに、彼の性情から誰しも考え得られるるように、恋の心を起こしたのであった。恋、それは充分に熟してきた恋である。しかも悲しいことには、彼は影に恋しているのである。近づくことも、言葉を伝えることも出来ない。彼女の美しい口唇《くちびる》から言葉をきくことも出来ない。ただ蜜蜂が蜜壺を見るがごとくに、彼は眼で彼女を求めているばかりである。彼は絶えず独りで歌っていた。
[#ここから2字下げ]
われは死なむ処女《おとめ》の愛に……
[#ここで字下げ終わり]
 コスモは愛慕の情に胸を破らるるばかりであったが、さすがに死ぬことはできなかった。彼女のために心尽くしをすればするほど、彼女への恋は弥増《いやま》してゆくばかりであった。たとい彼女がコスモに近づくことがないにしても、見知らぬ人間が彼女のために生命を捧ぐるまでに恋いこがれているということを、彼女が喜んでくれればそれでいいと望んでいた。コスモは自分と彼女とが今はこうして離れているが、いつかは彼女が自分を見て何かの合図をしてくれるものと思って、ひそかに自分を慰めていた。なぜといえば、「すべて恋する人の心は相手に通ずるものである」また、「実際、どれだけの愛人たちが、この鏡のうちと同じように、ただ見るばかりでそれ以上近づき得られないでいるか。知っているようで、また知っていないようで、相手の心に触れるひまもなく、ただこの宇宙のような漠然とした心持ちだけで何年もの間をさまよいあるいているか」また、「自分がもし彼女と語ることが出来さえすれば、彼女が自分の言うことを聴いてさえくれれば、それだけで自分は満足する」――コスモはそう思ったりした。あるときは、彼は壁に絵をかいて、自分の思いを伝えようかと思ったが、いざやって見ると、絵の上手な割りには手がふるえて描けなかった。彼はそれもやめてしまったのであった。
[#ここから2字下げ]
生けるものは死し、死するものまた生く。
[#ここで字下げ終わり]
 ある夜のことであった。コスモは自分の宝である彼女を見つめていると、彼女はコスモの熱情ある眼が自分に注がれていることを知ったらしい自覚の顔色をほのかに現わしたのを見たのであった。[#「。」は底本では「。、」]彼女もしまいには、首から頬、額にかけて赤く染めたので、コスモはもう傍《そば》に寄りつきたい心持ちで夢中になっていた。その夜、彼女はダイヤモンドの輝いている夜会服を着ていた。それは格別彼女の美しさを増してはいなかったが、また別な美しさを見せていた。彼女の美しさは無限であって、こうして違った新しい身装《みなり》になると、さらに別な愛らしさを示していた。すべて自然の心は、自然の美しさを見せるために限りなくさまざまな形をあらわし、この世に出て来るすべての美しき人びとは、同じ心臓の鼓動を持っていても、二人とは同じ顔の持ち主はいないのである。個人については猶更《なおさら》のこと、身の廻りのものを限りなく変えて、あらゆる美しさを見せなければならないのである。
 ダイヤモンドは彼女の髪の中から、暗い夜の雨雲のあいだから星が光るように、なかばその光りをかくしながら光っていた。彼女の腕環は、彼女が雪のような白い手でほてった顔をかくすたびに、虹の持つようなさまざまの色を輝かしていた。しかも彼女の美しさにくらべれば、これらの装飾は何ものでもなかった。
「一度でもいいから、もし彼女の片足にでも接吻《キッス》することが出来たら、僕は満足するのだが……」
 コスモはそう思った。ああ、しかし、その熱情も報《むく》われないのである。彼女が美しい魔鏡の世界からこの世に出てくる二つの道があるのであるが、彼はそれを知らないのであった。たちまちある悲しみが外から湧いてきた。初めはただの歎《なげ》きであったが、のちにはそれが悩みを起こして、彼の心に深く喰い入った。
「彼女はどこかに愛人がある。その愛人の言葉を思い出して彼女は顔を染めたに相違ない。彼女は僕の所から離れると、夜昼いつでも別の世界に生きている。僕の姿は彼女にはわからない。それでいながら、彼女はどうしてここへ来て、僕のような強い男が彼女をこれ以上に見あげることが出来ないくらいに恋ごころを起こさせるのだろう」
 コスモは再び彼女のほうをみると、彼女は百合《リリー》のような青白い顔色をして、悲しみの色が休みなき宝石の光りを妨げているように見えていた。その眼にはまたもや静かな涙がにじんでいた。その夜の彼女はいつもより早く部屋を立ち去ったので、コスモは独り取り残されて、胸のうちが急に空虚になり、全世界はその地殻を破られたように思われた。
 次の夜(彼女がこの部屋に来はじめてから最初のことである
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング