哲学者が大道に演説すれば、素面の男は微笑をうかべて聴き、馬の蹄は石の鋪道を蹴立てて走っている。それらの中を一人の頑丈な、陰鬱な大男が沈黙と絶望の冷やかな足取りで歩きながら、こうした人々の心に不快と、忿怒《ふんぬ》と、なんとはなしに悩ましげな倦怠とを播《ま》いて行った。ローマに於いてすら、なお悲痛な顔をしているこのラザルスを見た市民は、驚異の感に打たれて眉をひそめた。二日の後にローマ全市は、彼が奇蹟的によみがえったラザルスであることを知るや、恐れて彼を遠ざけるようになった。
 その中には又、自分たちの胆力を試してみようという勇気のある人たちもあらわれて来た。そういう時には、ラザルスはいつも素直に無礼なかれらの招きに応じた。皇帝アウガスタスは国事に追われて、彼を召すのがだんだんに延びていたので、ラザルスは七日のあいだ、他の人々のところへ招かれて行った。
 ラザルスが一人の享楽主義者の邸へ招かれたとき、主人公は大いに笑いながら彼を迎えた。
「さあ、一杯やれ、ラザルス君。お前が酒を飲むところを御覧になったら、皇帝も笑わずにはいられまいて。」と、主人は大きい声で言った。
 半裸体の酔いどれの女たちはどっと笑って、ラザルスの紫色の手に薔薇の花びらを振りかけた。しかもこの享楽主義者がラザルスの眼をながめたとき、彼の歓楽は永劫に終りをつげてしまった。彼は一滴の酒も口にしないのに、その余生をまったく酔いどれのように送った。そうして、酒がもたらすところの楽しい妄想の代りに、彼は恐ろしい悪夢に絶えずおそわれ、昼夜を分かたずその悪夢の毒気を吸いながら、かの狂暴残忍なローマの先人たちよりも更に物凄い死を遂げた。
 ラザルスは又、ある青年と彼の愛人のところへ呼ばれて行った。かれらはたがいに恋の美酒に酔っていたので、その青年はいかにも得意そうに、恋人を固く抱擁しながら、穏かに同情するような口ぶりで言った。
「僕たちを見たまえ、ラザルス君。そうして、僕たちが悦びを一緒に喜んでくれたまえ。この世の中に恋より力強いものがあろうか。」
 ラザルスは黙って二人を見た。その以来、この二人の恋人同士は互いに愛し合っていながらも、かれらの心はおのずから楽しまず、さながら荒れ果てた墓地に根をおろしているサイプレスの木が、寥寂たる夕暮れにその頂きを徒らに天へとどかせようとしているかのように、その後半生を陰鬱のうちに送ることとなった。不思議な人生の力に駆られて互いに抱擁し合っても、その接吻《キッス》にはにがい涙があり、その逸楽には苦痛がまじるので、この若い二人は、自分たちはたしかに人生に従順なる奴隷であり、沈黙と虚無の忍耐強い召使いであると思うようになった。常に和合するかと思えば、また夫婦喧嘩をして、かれらは火花の如くに輝き、火花のごとくに常闇《とこやみ》の世界へと消えて行った。
 ラザルスは更に又、ある高慢なる賢人の邸へ招かれた。
「わたしはお前が顕わすような恐怖ならば、みな知っている。お前はこのわたしを恐れさせるような事が出来るかな。」と、その賢人は言った。
 しかもその賢人は、恐怖の知識というものは恐怖そのものではなく、死の幻影は死そのものではない事をすぐに知った。また賢こさと愚かさとは無限の前には同一である事、何となればそれらの区別はただ人間が勝手に決めたのであって、無限には賢こさも愚かさもないことを識った。したがって、有智と無智、真理と虚説、高貴と卑賤とのあいだの犯すべからざる境界線は消え失せて、ただ無形の思想が空間にただよっているばかりとなってしまった。そこで、その賢人は白髪《しらが》の頭を掴んで、狂気のように叫んだ。
「わたしには判らない。私には考える力がない。」
 こうして、この奇蹟的によみがえった男を、ひと目見ただけで、人生の意義と悦楽とはすべて一朝にして滅びてしまうのである。そこで、この男を皇帝に謁見させることは危険であるから、いっそ彼を亡き者にして窃かに埋めて、皇帝にはその行くえ不明になったと申し上げた方がよかろうという意見が提出された。それがために首斬り刀はすでに研《と》がれ、市民の安寧維持をゆだねられた青年たちが首斬り人を用意した時、あたかも皇帝から明日ラザルスを召すという命令が出たので、この残忍な計画は破壊された。
 そこで、ラザルスを亡き者にすることが出来ないまでも、せめては彼の顔から受ける恐ろしい印象を和らげる事ぐらいは出来るであろうという意見で、腕のある画家や、理髪師や、芸術家らを招いて、徹夜の大急ぎでラザルスの髭を刈って巻くやら、絵具でその顔や手の死びと色の斑点を塗り隠すやら、種々の細工が施された。今までの顔に深いみぞを刻んでいた苦悩の皺は、人々に嫌悪の情を起こさせるというので、それもみな塗りつぶされて、そのあとは温良な笑いと快活さとを巧妙な
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