男の姿は見つかりませんでした。むろん、その男の投身は発狂の結果だということは後《のち》に分かったのでした」
「そういうことはよくありますね」と、僕はなんの気なしに言った。
「いや、そんなことはありません」と、船長はきっぱりと言った。「私はほかの船にそういうことがあったのを聞いたことはありますが、まだ私の船では一遍もありませんでした。さよう、私は五月だったと申しましたね。その帰りの航海で、どんなことが起こったか、あなたには想像がつきますか」
こう僕に問いかけたが、船長は急に話を中止した。
僕はたぶん返事をしなかったと思う。というのが、窓の鍵の金具がだんだんに動いてきたような気がしたので、じっとその方へ眼をそそいでいたからであった。僕は自分の頭にその金具の位置の標準を定めておいて、眼をはなさずに見つめていると、船長もわたしの眼の方向を見た。
「動いている」と、彼はそれを信じるように叫んだが、すぐにまた、「いや、動いてはいない」と、打ち消した。
「もし螺旋《ねじ》がゆるんでいくのならば、あしたの昼じゅうにあいてしまうでしょうが……。私はけさ力いっぱいに捻じ込んでおいたのが、今夜もそのままになっているのを見ておいたのです」と、僕は言った。
船長はまた言った。
「ところが、不思議なことには二度目に行くえ不明になった船客は、この窓から投身したという臆説がわれわれの間に立っているのです。恐ろしい晩でしたよ。しかも真夜中ごろだというのに、風雨《あらし》は起こっていました。すると、窓の一つがあいて、海水が突入しているという急報に接して、わたしは下腹部へ飛んで降りて見ると、もう何もかも浸水している上に、船の動揺のたびごとに海水は滝のように流れ込んでくるので、窓全体の締め釘がゆらぎ出して、とうとうぐらぐらになってしまいました。われわれは窓の戸をしめようとしましたが、なにしろ水の勢いが猛烈なのでどうすることも出来ませんでした。そのとき以来、この部屋は時どきに潮くさい臭いがしますがね。そこで、どうも二度目の船客はこの窓から投身したのではないかと、われわれは想像しているのですが、さてどういうふうにしてこの小さい窓から投身したかは、神様よりほかには知っている者はないのです。あのロバートがよく私に言っていることですが、それからというものは、いくら彼がこの窓を厳重にしめても、やはり自然にあくそうです。おや、たしかに今……。私にはあの潮くさい臭いがします。あなたには感じませんか」
船長は自分の鼻を疑うように、しきりに空気を※[#「鼻+嗅のつくり」、第4水準2−94−73]《か》ぎながら、僕にきいた。
「たしかに私にも感じます」
僕はこう答えながら、船室いっぱいに昨夜と同じく、かの腐ったような海水の臭いがだんだんに強くただよって来るのにぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。
「さあ、こんな臭いがして来たからは、たしかにこの部屋が湿気《しけ》ているに違いありません」と、僕は言葉をつづけた。「けさ私が大工と一緒に部屋を調べたときには、何もかもみな乾燥していましたが……。どうも尋常事《ただごと》ではありませんね。おや!」
突然に上の寝台のなかに置いてあった手燭が消えた。それでも幸いに入り口の扉のそばにあった丸い鏡板つきのランプはまだ十分に輝いていた。船は大きく揺れて、上の寝台のカーテンがぱっとひるがえったかと思うと、また元のようになった。素早く僕は起きあがった。船長はあっ[#「あっ」に傍点]とひと声叫びながら飛びあがった。ちょうどその時、僕は手燭をおろして調べようと思って、上の寝台の方へ向いたところであったが、本能的に船長の叫び声のする方を振り返って、あわててそこへ飛んでゆくと、船長は全身の力をこめて、窓の戸を両手でおさえていたが、ともすると押し返されそうであったので、僕は愛用の例の樫のステッキを取って鍵のなかへ突き通し、あらん限りの力をそそいで窓の戸のあくのを防いだ。しかもこの頑丈なステッキは折れて、僕は長椅子の上に倒れた。そうして、再び起きあがった時には、もう窓の戸はあいて、跳ね飛ばされた船長は入り口の扉を背にしながら、真っ蒼な顔をして突っ立っていた。
「あの寝台に何かいる」と、船長は異様な声で叫びながら、眼を皿のように見開いた。「わたしが何者だか見る間、この戸口を守っていてください。奴を逃がしてはならない」
僕は船長の命令をきかずに、下の寝台に飛び乗って、上の寝台に横たわっている得体《えたい》の知れない怪物をつかんだ。
それは何とも言いようのないほどに恐ろしい化け物のようなもの[#「もの」に傍点]で、僕につかまれながら動いているところは、引き延ばされた人間の肉体のようでもあった。しかもその動く力は人間の十倍もあるので、僕は全力をそそいでつかんでいると、そ
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