バーンは自分が一座の注目の的となっているのを心得ていながら、平然とシガーをくゆらせて言いつづけた。
「まったく不思議な話というのは、幽霊の話なんだがね。いったい人間という奴は、誰か幽霊を見た者があるかどうかと、いつでも聞きたがるものだが、僕はその幽霊を見たね」
「馬鹿な」
「君がかい」
「まさか本気じゃあるまいね、ブリスバーン君」
「いやしくも知識階級の男子として、そんな馬鹿な」
 こういったような言葉が同時に、ブリスバーンの話に浴びせかけられた。なんだ、つまらないといったような顔をして、一座の面めんはみなシガーを取り寄せると、司厨夫《バットラー》のスタッブスがどこからとなしに現われて、アルコールなしのシャンパンの壜《びん》を持って来たので、だれ[#「だれ」に傍点]かかった一座が救われた。ブリスバーンは物語をはじめた。

 僕は長いあいだ船に乗っているので、頻繁《ひんぱん》に大西洋を航海する時、僕は変な好みを持つようになった。もっとも大抵の人間にはめいめいの好みというものはある。たとえて言えば、僕はかつて、自分の好みの特種の自動車が来るまで、ブロード・ウェイの酒場《バア》で四十五分も待っていた一人の男を見たことがあった。まあ、僕に言わせると、酒場の主人などという者は、そうした人間の選りごのみの癖のお蔭で、三分の一は生活が立っていけるのであろう。で、僕にも大西洋を航海しなければならない時には、ある極まった汽船を期待する癖がある。それはたしかに偏寄《かたよ》った癖かもしれないが、とにかく、僕には、たった一遍、一生涯忘れられないほどの愉快な航海があった。
 僕は今でもよくそれを覚えている。それは七月のある暑い朝であった。検疫所から来る一艘の汽船を待っている間、税関吏たちはふらふらと波止場を歩いていたが、その姿は特に靄《もや》でぼんやりしていて、いかにも思慮のありそうに見えた。僕には荷物がほとんどなかった、というよりは全くなかったので、乗船客や運搬人や真鍮《しんちゅう》ボタンの青い上衣《うわぎ》を着た客引きたちの人波にまじって、その船の着くのを待っていた。
 汽船が着くと、例の客引きたちはいち早く茸《きのこ》のようにデッキに現われて、一人一人の客に世話を焼いていた。僕はある興味をもって、こうした人びとの自発的行動をしばしば注意して見ていたのであった。やがて水先案内が「出帆!」と叫ぶと、運搬夫や、例の真鍮ボタンに青い上衣の連中は、まるでダビー・ジョンスが事実上監督している格納庫へ引き渡されてしまったように、わずかの間にデッキや舷門から姿を消したが、いざ出帆の間ぎわになると、綺麗に鬚《ひげ》を剃って、青い上衣を着て、祝儀《チップ》をもらうのにあくせくしている客引きたちは再びそこへ現われた。僕も急いで乗船した。
 カムチャツカというのは僕の好きな船の一つであった。僕があえて「あった[#「あった」に傍点]」という言葉を使うのは、もう今ではその船をたいして好まないのみならず、実は二度と再びその船で航海したいなどという愛着はさらさら無いからである。まあ、黙って聞いておいでなさい。そのカムチャツカという船は船尾は馬鹿に綺麗だが、船首の方はなるたけ船を水に浸《ひた》させまいというところから恐ろしく切っ立っていて、下の寝台は大部分が二段《ダブル》になっていた。そのほかにもこの船にはなかなか優れている点はたくさんあるが、もう僕はその船で二度と航海しようとは思わない。話が少し脇道へそれたが、とにかくそのカムチャツカ号に乗船して、僕はその給仕《スチュワード》に敬意を表した。その赤い鼻とまっかな頬鬚がどっちとも気に入ったのである。
「下の寝台の百五号だ」と、大西洋を航海することは、下町《したまち》のデルモニコ酒場でウィスキーやカクテルの話をするくらいにしか考えていない人間たち特有の事務的の口調で、僕は言った。
 給仕は僕の旅行鞄と外套と、それから毛布を受け取った。僕はそのときの彼の顔の表情を忘れろと言っても、おそらく忘れられないであろう。むろん、かれは顔色を変えたのではない。奇蹟ですら自然の常軌を変えることは出来ないと、著名な神学者連も保証しているのであるから、僕も彼が顔色を真っ蒼にしたのではないというのにあえて躊躇《ちゅうちょ》しないが、しかしその表情から見て、彼が危うく涙を流しそうにしたのか、噴嚔《くさめ》をしそこなったのか、それとも僕の旅行鞄を取り落とそうとしたのか、なにしろはっ[#「はっ」に傍点]としたことだけは事実であった。その旅行鞄には、僕の古い友達のスニッギンソン・バン・ピッキンスから餞別《せんべつ》にもらった上等のシェリー酒が二壜はいっていたので、僕もいささか冷やりとしたが、給仕は涙も流さず、くさめもせず、旅行鞄を取り落とさなかった。
「では、
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