」と叫ぶと、運搬夫や、例の真鍮ボタンに青い上衣の連中は、まるでダビー・ジョンスが事実上監督している格納庫へ引き渡されてしまったように、わずかの間にデッキや舷門から姿を消したが、いざ出帆の間ぎわになると、綺麗に鬚《ひげ》を剃って、青い上衣を着て、祝儀《チップ》をもらうのにあくせくしている客引きたちは再びそこへ現われた。僕も急いで乗船した。
 カムチャツカというのは僕の好きな船の一つであった。僕があえて「あった[#「あった」に傍点]」という言葉を使うのは、もう今ではその船をたいして好まないのみならず、実は二度と再びその船で航海したいなどという愛着はさらさら無いからである。まあ、黙って聞いておいでなさい。そのカムチャツカという船は船尾は馬鹿に綺麗だが、船首の方はなるたけ船を水に浸《ひた》させまいというところから恐ろしく切っ立っていて、下の寝台は大部分が二段《ダブル》になっていた。そのほかにもこの船にはなかなか優れている点はたくさんあるが、もう僕はその船で二度と航海しようとは思わない。話が少し脇道へそれたが、とにかくそのカムチャツカ号に乗船して、僕はその給仕《スチュワード》に敬意を表した。その赤い鼻とまっかな頬鬚がどっちとも気に入ったのである。
「下の寝台の百五号だ」と、大西洋を航海することは、下町《したまち》のデルモニコ酒場でウィスキーやカクテルの話をするくらいにしか考えていない人間たち特有の事務的の口調で、僕は言った。
 給仕は僕の旅行鞄と外套と、それから毛布を受け取った。僕はそのときの彼の顔の表情を忘れろと言っても、おそらく忘れられないであろう。むろん、かれは顔色を変えたのではない。奇蹟ですら自然の常軌を変えることは出来ないと、著名な神学者連も保証しているのであるから、僕も彼が顔色を真っ蒼にしたのではないというのにあえて躊躇《ちゅうちょ》しないが、しかしその表情から見て、彼が危うく涙を流しそうにしたのか、噴嚔《くさめ》をしそこなったのか、それとも僕の旅行鞄を取り落とそうとしたのか、なにしろはっ[#「はっ」に傍点]としたことだけは事実であった。その旅行鞄には、僕の古い友達のスニッギンソン・バン・ピッキンスから餞別《せんべつ》にもらった上等のシェリー酒が二壜はいっていたので、僕もいささか冷やりとしたが、給仕は涙も流さず、くさめもせず、旅行鞄を取り落とさなかった。
「では、
前へ 次へ
全26ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング