くれあがって雲の峰のように渦を巻いて、わたしの上に落ちてきたような気がしていた。

       四

 それから一週間の後《のち》(すなわち、五月七日)に私はヘザーレッグの部屋に、まるで小さい子供のように弱って横たわっているのに気がついた。ヘザーレッグは机の上の書類越しに私をじっと見守っていた。かれの最初の言葉は別に私に力をつけてくれるようなものでもなかった。わたし自身もあまりに疲れ過ぎていたので、少しも感動しなかった。
「キッティさんから返してきたあなたの手紙がここにあります。さすがに若い人だけに、あなたもだいぶ文通をしたものですね。それからここに指環らしい包みがあります。それにマンネリングのお父さんからの丁寧な手紙がつけてありましたが、それは私の名《な》宛《あて》であったので、読んでから焼いてしまいました。お父さんはあなたに満足していないようでしたよ」
「で、キッティは……」と、私は微《かす》かな声で訊いた。
「いや、その手紙は彼女のお父さんの名にはなっていましたが、むしろ彼女の言っている言葉でしたよ。その手紙によると、あなたは彼女と恋に陥《お》ちた時に、不倫の思い出の何もかも打ち明けてしまわなければならなかったというのです。それからまた、あなたがウェッシントン夫人に仕向けたようなことを、婦人に対しておこなう男は、男子全体の名誉をよごした謝罪のために、よろしく自殺すべきであるというのですよ。彼女は若いくせに、感情に激しやすい勇婦ですからね。ジャッコへゆく途中で騒ぎが起こった時、あなたが囈語《うわこと》に悩んだだけでもうじゅうぶんであるのに、彼女はあなたと再び言葉を交すくらいならば、いっそ死んでしまうというのですよ」
 わたしは唸《うな》り声を発するとともに、反対の側へ寝返りを打ってしまった。
「さて、あなたはもう物を選択する力を回収していますね。ようござんすか。この婚約は破られるべき性質のものであり、また、この上にマンネリング家の人びともあなたを苛酷な目に逢わせようとは思っていません。ところで、いったいこの婚約は単なる囈語のために破られたのでしょうか、それとも癲癇《てんかん》的|発作《ほっさ》のためでしょうか。お気の毒ですが、あなたが自分には遺伝性癲癇があると申し出てくれなければ、私には他に適当な診断がつかないのですがね。私は特に遺伝性癲癇という言葉を申しますよ。そうして、あなたの場合はその発作だと思いますがね。シムラの人びとは婦人の一マイル競走の時のあの光景をみな知っていますよ。さあ、私は五分間の猶予《ゆうよ》をあたえますから、癲癇の血統があるか無いか考えてみてください」
 そこで、この五分間――今でも私はこの世ながらの地獄のどん底をさぐり廻っていたような気がする。同時に、疑惑と不幸と絶望との常闇《とこやみ》の迷路をつまずき歩いている自分のすがたを、私は見守っていた。そうして私もまた、ヘザーレッグが椅子に腰をかけながら知りたがっているように、自分はどっちを選択するだろうかという好奇心をもって自分をながめていたが、結局、わたしは自分自身がきわめて微かな声で返事をしたのを聞いた。
「この地方の人間はばかばかしく道徳観念が強い。それだから彼らに発作をあたえよ、ヘザーレッグ、それからおれの愛をあたえてくれ。さて、おれはもう少し寝なくっちゃならない」
 それから二つの自己がまた一つになると、過ぎ去った日の事どもをだんだんにたどりながら、ベッドの上で蜿《のた》うち廻っている、ただの私(半分発狂し、悪魔に憑《つ》かれた私)になった。
「しかしおれはシムラにいるのだ」と、私はくりかえして自分に言った。「ジャック・パンセイというおれは、今シムラにいる。しかもここには幽霊はいないではないか。あの女がここにいるふうをしているのは不合理のことだ。何ゆえにウェッシントン夫人はおれを独りにしておくことが出来なかったのか。おれは別にあの女に対してなんの危害を加えたこともないのだ。その点においてはあの女も同じことではないか。ただ、おれはあの女を殺す目的で、あの女の手に帰って行かなかっただけのことだ。なぜおれは独りでいられないか。……独りで、幸福に……」
 私が初めて目をさました時は、あたかも正午であったが、私が再び眠りかかった時分には太陽が西に傾いていた。それから犯罪者が牢獄の棚《たな》の上で苦しみながら眠るように眠ったが、あまりに疲れ切っていたので、かえって起きている時分よりも余計に苦痛を感じた。
 翌日もわたしはベッドを離れることが出来なかった。その朝、ヘザーレッグは私にむかって、マンネリング氏からの返事が来たことや、彼(ヘザーレッグ)の友情的|斡旋《あっせん》のおかげで、わたしの苦悩の物語はシムラの隅ずみまで拡がって、誰もみなわたしの立ち場に同情していてくれることなどを話してくれた。
「そうして、この同情はむしろあなたが当然受くべきものであった」と、彼は愉快そうに結論をくだした。「それに、あなたが人世の苦《にが》い経験をかなりに経て来られたことは神様が知っておられますからな。なに、心配することはありませんよ。私があなたをまた癒《なお》してあげますよ。あなたはちょっとした錯覚を自分で悪いほうに考えているのですよ」
 私はもう癒ったような気がした。
「あなたはいつも親切にしてくださいますね、先生」と、私は言った。「しかし、もうこの上あなたにご心配をかける必要はないと思います」
 こうは言ったものの、わたしの心のうちでは、ヘザーレッグの治療などで、私のこころの重荷を軽くすることが出来るものかと思っていた。
 こう考えてくると、また私の心には、理不尽な幽霊に対してなんとなく反抗の出来ないような、頼りない、さびしい感じが起こってきた。この世の中には、自分のしたことに対する罰として死の運命を宣告された私よりも、もっと不幸な人間が少しはいるであろうから、そういう人たちと一緒ならばまだ気が強いが、たった独りでこんなに残酷な運命のもとにいるのはあまりに無慈悲だと思った。結局、あの人力車と私だけが虚無の世界における単一の存在物で、マンネリングやヘザーレッグや、その他わたしが知っているすべての人間こそみんな幽霊であって、空虚な影、まぼろしの人力車以外の大きな灰色の地獄それ自身(この世の人間ども)が私を苦しめているのだ、というような考えに変わっていった。
 こうして苛《いら》いらしながら七日の間、いろいろのことを考えながら輾転反側《てんてんはんそく》しているうちに、かえって私の肉体は日増しに丈夫になっていって、寝室の鏡にうつしてみても平常と変わりがなく、ふたたびもとの人間らしくなった。そうして実に不思議なことには、わたしの顔には過去の苦悶争闘の跡が消えてしまった。なるほど、顔色は蒼かったが、ふだんのように無表情な、平凡な顔になった。実際をいうと、私はある永久の変化――私の生命をだんだんに蚕食《さんしょく》していくところの発作から来る肉体的変化を予期していたが、全然そんな変化は見えなかった。
 五月十五日の午前十一時に、私はヘザーレッグの家を立ち去って、独身者の本能からすぐに倶楽部へ行った。そこではヘザーレッグが言ったように、誰も彼もわたしの話を知っていて、妙に取ってつけたように気味の悪いほど親切で、鄭重《ていちょう》にしてくれるのに気がついたので、寿命のあらん限りは自分の仲間のうちにいようと肚《はら》をきめた。しかしその仲間の一人になり切ってしまうことは出来なかった。したがって私には、倶楽部の下の木蔭でなんの苦もなさそうに笑っていられる苦力らが憎らしいほどに羨ましかった。
 私は倶楽部で昼飯を食って、四時頃にぶらりと外へ出ると、キッティに逢えはしないかという漠然とした希望をいだきながら木蔭の路へ降りていった。音楽堂の近くで、黒と白の法被がわたしのそばに来るなと思う間もなく、ウェッシントン夫人のいつもの歎願の声が耳のそばに聞こえた。実は外へ出た時からすでに予期していたので、むしろその出現が遅いのに驚いたくらいであった。それからまぼろしの人力車と私とはショタ・シムラの道に沿って、摺れすれに肩を並べながら黙って歩いて行った。物品陳列館の近所で、キッティが一人の男と馬を並べながら私たちを追い越した。彼女はまるで路ばたの犬でも見るような眼で、私を見返っていった。ちょうど夕方ではあり、雨さえ降っていたので、私がわからなかったというかもしれないが、彼女は人を追い越してゆくに挨拶さえもしなかった。
 こうしてキッティとその連れの男と、私とわたしの無形の愛の光りとは、ふた組になってジャッコの周囲を徐行した。道は雨水で川のようになっている。松からは樋《とい》のように下の岩へ雨だれを落としている。空気は強い吹き降りの雨に満ちている。
「おれは賜暇《しか》を得てシムラに来ているジャック・パンセイだ。……シムラに来ているのだ。来る日も、来る日も、平凡なシムラ……。だが、おれはここを忘れてはならないぞ……忘れてはならないぞ」と、わたしは二、三度、ほとんど大きい声を立てんばかりに独りごとを言っていた。
 それから倶楽部で耳にしたきょうの出来事の二、三、たとえばなにがしが所有の馬の値《あた》いはいくらであったというような事――私のよく知っている印度居住の英国人の実生活に関係ある事どもを追想してみようとした。また、わたしは自分が気が違っていないということをしっかりと頭に入れようと思って、出来るだけ早く掛け算の表をさえくりかえしてみた。その結果は、わたしに非常な満足をもたらした。そのためにしばらくの間は、ウェッシントン夫人の言葉に耳を傾けるのを中止しなければならなかった。
 もう一度、わたしは疲れた足を引き摺りながら尼寺の坂道を登って、平坦な道へ出た。そこからキッティと例の男とは馬をゆるやかに走らせたので、私はウェッシントン夫人と二人ぎりになった。
「アグネス」と、私は言った。「幌《ほろ》をうしろへ落としたらどうです。そうして、こうやって始終人力車に乗って私につきまとうのは、いったいどういうわけだか話してください」
 幌は音もなく落ちて、わたしは死んで埋められた夫人と顔を突き合わせた。
 彼女はわたしが生前に見た着物を着て、右の手にいつもの小さいハンカチーフを持ち、左の手にやはりいつもの名刺入れを持っていた。(ある婦人が八ヵ月前に名刺入れを持って死んだことがあった。)さあ、こうなって来ると、わたしは現在と過去との区別がつきかねたので、また少なくとも自分は気が狂っていないということをたしかめるために、路ばたの石の欄干の上に両手を置いて、掛け算の表をくりかえさなければならなかった。
「アグネス」と、わたしはくりかえした。「どうか私にそのわけを話してください」
 ウェッシントン夫人は前かがみになると、いつもの癖で、妙に早く首を傾《かし》げてから口をひらいた。
 もしもまだ、私の物語はあまりに気違いじみて諸君には信じられないというほどでないというのであったら、私はいま諸君に感謝しなければならない。誰も――私はキッティのために自分の行為のある種の弁明としてこれを書いているのであるが、そのキッティでさえも――私を信じてくれないであろうということを知っているけれども、とにかくに私は自分の物語を進めてゆこう。
 ウェッシントン夫人は話し出した。そうして、私は彼女と一緒にサンジョリーの道から印度総督邸の下の曲がり角まで、まるで生きている婦人の人力車と肩をならべて歩いているようにして、夢中に話しながら来てしまった。すると、急に再度の発作が襲ってきたので、テニソンの詩に現われてくる王子のように、わたしは幽霊界をさまよっているような気になった。
 総督邸では園遊会を催しているので、私たち二人は帰途につく招待客の群集に巻き込まれてしまった。私にはかれら招待客がみな本物の幽霊に見えてきた。――しかもウェッシントン夫人の人力車をやりすごさせるために、かれらは道をひらいたではないか。
 この考えてもぞっとするような会
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