ない。二ヵ月前には私も、これと同じ物語を大胆にも私に話したその男を、気ちがいか酔いどれのように侮蔑した。そうして、二ヵ月前には私は印度でも一番の仕合わせ者であった。それが今日では、ペシャワーから海岸に至るまでの間に、私よりも不幸な人間はまたとあろうか。
 この物語を知っているものは、私の医者と私の二人である。しかも私の医者は、わたしの頭や消化力や視力が病いに冒《おか》されているために、時どきに固執性の幻想が起こってくるのであると解釈している。幻想、まったくだ! わたしは自分の医者を馬鹿呼ばわりしているが、それでもなお、判で押したように彼は綺麗に赤い頬鬚《ほおひげ》に手入れをして、絶えず微笑をうかべながら、温和な職業的態度で私を見廻って来るので、しまいには私も、おれは恩知らずの、性《たち》の悪い病人だと恥じるようになった。しかし、これから私が話すことが幻想であるかどうか、諸君に判断していただきたい。
 三年前に長い賜暇《しか》期日が終わったので、グレーヴセントからボンベイへ帰る船中で、ボンベイ地方の士官の妻のアグネス・ケイス・ウェッシントンという女と一緒になったのが、そもそも私の運命――わたしの大きな不運であった。いったい、彼女はどんなふうの女であるかを知るのは、諸君にとってもかなり必要なことであるが、それには航海の終わりごろから彼女とわたしとが、たがいに熱烈な不倫の恋に陥《お》ちたということを知れば、満足がゆかれるだろう。
 こんなことは、自分に多少なりとも虚栄心がある間は白状の出来ることではないのであるが、今の私にはそんなものはちっともない。さて、こうした恋愛の場合には、一人があたえ、他の一人が受けいれるというのが常である。ところが、われわれの前兆の悪い馴れそめの第一日から、私はアグネスという女は非常な情熱家で、男まさりで――まあ、しいて言うなら――私よりも純な感情を持っているのを知った。したがってその当時、彼女がわれわれの恋愛をどう思っていたか知らないが、その後、それは二人にとって実に苦《にが》い、味のないものになってしまった。
 その年の春にボンベイに着くと、私たちは別れわかれになった。それから二、三ヵ月はまったく逢わなかったが、わたしの賜暇と彼女の愛とがまたもや二人をシムラに馳《は》しらせた。そこでその季節《シーズン》を二人で暮らしたが、その年の終わるころに
前へ 次へ
全28ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング