眼と脳髄と、それから胃袋、特に胃袋からくるのですよ。あなたは非常に想像力の発達した頭脳を持っている割に、胃袋があまりに小さすぎるのです。それで、非常に不健康な眼、つまり視覚上の錯覚を生ずるのですよ。あなたの胃を丈夫になさい。そうすれば、自然に精神も安まります。それにはフランスの治療法によって肝臓の丸薬がよろしい。あなたは今日から私に治療を一任させていただきたい。なにしろあなたは、つまらない一つの現象のために、あまりに奪われ過ぎていますからな」
 ちょうどその時、私たちはブレッシングトンの坂下の木蔭を進んで行った。
 人力車は泥板岩《シェール》の崖の上に差し出ている一本の小松の下にぴたりと止まった。われを忘れて私もまた馬を止めたので、ヘザーレッグはにわかに呶鳴《どな》った。

「さあ、胃と脳と眼から来る錯覚患者のためにも、こんな山の麓《ふもと》でいつまでも冷たい夜の空気に当てておいていいか悪いか、考えても……。おや、あれはなんだ」
 私たちの行く手に耳をつんざくような爆音がしたかと思うと、一寸さきも見えないほどの砂煙りがぱっと立った。轟《とどろ》く音、枝の裂ける音、そうして光りが十ヤードばかり――松や藪《やぶ》や、ありとあらゆる物が坂の下へ崩れ落ちて来て、われわれの道をふさいでしまった。根こぎにされた樹木はしばらくの間、泥酔して苦しんでいる巨人のようにふらふらしていたが、やがて雷《らい》のような響きと共に、他の樹のあいだに落ちて横たわった。私たちふたりの馬はその恐ろしさに、あたかも化石したように立ちすくんだ。土や石の落ちる物音が鎮まるや否《いな》や、わたしの連れはつぶやいた。
「ねえ、もし僕たちがもう少し前へ進んでいたらば、今ごろは生き埋めになっていたでしょう。まだ神様に見捨てられなかったのですな。さあ、パンセイ君。家《うち》へ行って、一つ神様に感謝しようではありませんか。それに、どうも馬鹿に喉が渇《かわ》いてね」
 私たちは引っ返して教会橋を渡って、真夜中の少し過ぎたころに、ドクトル・ヘザーレッグの家に着いた。
 それからほとんどすぐに、彼はわたしの治療に取りかかって、一週間というものは私から離れなかった。そのあいだ幾たびか私はシムラの親切な名医と近づきになった自分の幸運に感謝したのであった。日増しに私のこころは軽く、落ちついてきた。そうしてまた、だんだんにヘザーレ
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