です」と、私は大きい声を出した。
 老紳士は笑いながら答えた。
「や、どうも、それは不思議な妄想ですな。いや、こうなると私の老眼を神様に感謝せざるを得ませんな。なるほど私もあの窓に可愛らしい女の顔を見ましたがね。しかし、私の眼には非常に上手な油絵の肖像画としか見えませんでしたがね」
 わたしは急いで振り返って、窓の方をながめると、そこには何者もいないばかりか、鎧戸もしまっていた。
 老紳士は言葉をつづけた。
「惜しいことでしたよ。もうちっと早ければようござんしたに……。ちょうどいま、あの邸にたった一人で住んでいる老執事が、窓の張り出しに油絵を立てかけて、その塵埃《ほこり》を払って、鎧戸をしめたところでした」
「では、ほんとうに油絵だったのですか」と、私はどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]しながら訊きかえした。
「ご安心なさい」と、老紳士は言った。「わたしの眼はまだたしかですよ。あなたは鏡に映った物ばかり見つめていられたから、よけいに眼が変になってしまったのです。私もあなたぐらいの時代には、よく美人画を思い出しただけで、大いに空想を描くことができたものでした」
「しかし、手や足が動きました」と、わたしは叫んだ。
「そりゃ動きました。たしかに動きましたよ」
 老紳士はわたしの肩を軽く叩いて、起《た》ちあがりながら丁寧にお辞儀をした。
「本物のように見せかける鏡には、気をつけたほうがようござんすよ」
 こう言って、彼は行ってしまった。
 あのおやじめ、おれを馬鹿な空想家扱いにしやあがったなと、こう気がついた時の私の心持ちは、おそらく諸君にもわかるであろう。わたしは腹立ちまぎれに我が家へ飛んで帰って、もう二度とあの廃宅のことは考えまいと心に誓った。しかし、かの鏡はそのままにして、いつもネクタイを結ぶときに使う鏡台の上に抛《ほう》り出しておいた。
 ある日、わたしがその鏡台を使おうとして、なんの気もなしにかの鏡に眼を留めると、それが曇っているように見えたので、手に取って息を吹きかけて拭《ふ》こうとする時、私の心臓は一時に止まり、わたしの細胞という細胞が嬉しいような、怖ろしいような感激におののき出した。私がその鏡に息を吹きかけた時、むらさきの靄の中から、かのまぼろしの女がわたしに笑いかけているではないか。諸君は、わたしを懲《こ》り性《しょう》のない夢想家だと笑うかもしれないが、ともかくもその靄が消えるとともに、彼女の顔も玲瓏《れいろう》たる鏡のなかへ消え失せてしまったのである。

 それから幾日のあいだの私の心持ちを今更くどく説明して、諸君を退屈させることもあるまい。ただそのあいだに私はいくたびか、かの鏡に息をかけてみたが、まぼろしの女の顔が現われる時と現われない時とがあったことだけを断わっておきたい。
 彼女を呼び起こすことの出来ない時には、私はいつも、かの廃宅の前へ飛んで行って、その窓を眺め暮らしていたが、もうそこらには人らしいものも見当たらなかった。私はもう友達も仕事もまったく振り捨てて、朝から晩まで気違いのようになって、まぼろしの女のことを思いつめていた。こんなくだらないことはやめようと思いながらも、それがどうもやめられないのであった。
 ある日、いつもより激しくこの幻影におそわれた私は、かの鏡をポケットに入れると、精神病の大家のK博士のもとへ急いで行った。わたしは一切の話を包まず打ち明けて、この怖ろしい運命から救ってくれと哀願すると、静かに私の話を聴いていた博士の眼にも、一種の驚愕《おどろき》の色がひらめいた。
「いや、そう御心配のことはないでしょう。まあ、私の考えではじきに癒《なお》ると思いますよ。あなたは自分から魔法にかかっていると思い込んで、それと戦おうとしているがために、かえって妄念が起こるのです。まずあなたのその鏡を私のところへ置いていって、専心にお仕事に没頭なさるようにお努めなさい。そうして、忘れても並木通りへは足を向けないようにして、一日の仕事をしてから長い散歩をしては、お友達の一座と楽しくお過ごしなさい。食事は十分に摂《と》って、営養のゆたかな葡萄酒をお飲みなさい。これから私は、その廃宅の窓や鏡に現われる女の顔の執念ぶかい幻影と戦って、あなたを心身ともに丈夫にしてあげるつもりですから、あなたも私の味方をする気になって、わたしの言う通りを守って下さい」と、博士は言った。
 渋《しぶ》しぶながらに鏡を手放した私の態度を、博士はじっと見ていたらしかった。それから博士はその鏡に自分の息を吹きかけて、それを私の眼の前へ持って来た。
「何か見えますか」
「いいえ、なんにも」と、私はありのままを答えた。
「では、今度はあなた自身がこの鏡に息をかけてごらんなさい」と、博士はわたしの手に鏡をわたした。
 わたしは博士の言う通りにする
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