今のような立派な建物ができない昔には、なかなか洒落たお邸で、この並木通りの名物だったそうでしたが、今じゃあもう何年となく空家同様に打っちゃらかしてあるんです。それでもあすこには、人に逢うのが嫌いだという偏屈な執事の爺《じい》さんと、馬鹿に不景気な犬がいましてね。犬の奴め、時どきに裏の庭で月に吠《ほ》え付いていますよ。世間じゃあ幽霊が出るなんて言っていますが、実のところ、この店を持っているわたしの兄貴とわたしとが、まだ人の寝しずまっている頃から起きて、菓子の拵《こしら》えにかかっていると、塀の向う側で変な音のするのを毎日聞くことがありますが、それがごろごろというように響くかと思うと、また何か掻きむしるような音がして、なんともいえない忌《いや》な心持ちがしますよ。ついこの間なども、変な声でなんだか得体《えたい》のわからない唄を歌っていました。それがたしかに婆さんの声らしいんですけれど、そのまた調子が途方もなく甲高《かんだか》で、わたしもずいぶんいろいろの国の歌い手の唄を聴いたことがありますが、今まであんな調子の高い声は聴いたことがありません。自然に身の毛がよだってきて、とてもあんな気ちがいじみた化け物のような声をいつまで聴いてはいられなかったので、よくはっきりとはわかりませんが、どうもそれがフランス語の唄のように思われました。それからまた、往来のとぎれた真夜中に、この世のものとは思われないような深い溜め息や、そうかと思うと、また気ちがいのような笑い声がきこえてくることもあるんです。なんなら、旦那。わたしの家の奥の部屋の壁に耳を当ててごらんなさい。きっと隣りの家の音がきこえますよ」
こう言って、彼はわたしを奥の部屋へ案内して、窓から隣りを指さした。
「そこの塀から出ている煙突が見えましょう。あの煙突から時どき猛烈に煙りを噴《ふ》き出すので、どうも火の用心が悪いといって、家《うち》の兄貴がよくあの執事と喧嘩をすることがあるんです。それがまた、冬ばかりじゃあない、てんで火の気なんぞのいらないような真夏でさえもなんですからね。あの老爺《じじい》は食事の支度をするんだと言っているんです。あんな獣物《けだもの》が何を食うんだか知りませんけれど、煙突から煙りがひどく出るときには、いつでも家じゅうに変な匂いがするんですよ」
ちょうどその時に店のガラス戸があいたので、菓子屋の職人は急
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