。一日のうち、なんどきそこを通っても、家内に人間が住んでいるらしい様子は更に見えなかった。
 私がしばしば不思議な世界を見たと言って、自分の透視眼を誇っていることは、どなたもよく御承知であろう。そうして、諸君はそんな世界を常識から観て、あるいは否定し、あるいは一笑に付せらるるであろう。私自身もあとになって考えると、それが一向不思議でもなんでもないことを発見するような実例がしばしばあったことを、白状しなければならない。そこで今度も最初のうちは、私をおどろかすようなこの異様な廃宅もまた、いつもの例ではないかと考えたのである。しかしこの話の要点を聞けば、諸君もなるほどとうなずかれるに相違ない。まずこれからの話をお聴きください。
 ある日、当世風の人たちがこの並木通りを散歩する時刻に、私は例によってこの廃宅《はいたく》の前に立って、じっと考え込んでいると、私のそばへ来て私を見つめている人のあることを突然に感じた。その人はP伯爵であった。伯爵は私にむかって、この空家はとなりの立派な菓子屋の工場である、階下の窓の塀はただ窯《かまど》のためにこしらえたもので、二階の窓の厚いカーテンは商売物の菓子に日光が当たらないようにおろしてあるまでのことで、別になんの秘密があるわけでは無いと教えてくれた。
 それを聞かされて、私はバケツの冷たい水をだしぬけにぶっかけられたように感じた。しかし、それが菓子屋の工場であるというP伯爵の話を何分にも信用することが出来なかった。それはあたかもお伽噺《とぎばなし》を聞いた子供が、本当にあったことだと信じていながらも、ふとした気まぐれにそれを嘘だと思ってみるような心持ちであった。しかし私は自分が馬鹿であるということに気がついた。かの家は依然としてその外形になんの変化もなく、いろいろの空想は自然に私の頭の中から消えてしまった。ところが、ある日偶然の出来事から再び私の空想が働き出すようになったのである。
 私はいつもの通りにこの並木通りを散歩しながら、かの廃宅の前まで来ると、無意識に二階のカーテンのおりている窓をみあげた。その時、菓子屋の方に接近している最後の窓のカーテンが動き出して、片手が、と思う間に一本の腕がその襞《ひだ》の間から現われた。私は早速にポケットからオペラグラスをとり出して見ると、実に肉付きのよい美しい女の手で、その小指には大きいダイヤモンドが
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