ときめてしまったが、今となってはそれが果たして正しいかどうか、はなはだ疑わしくなってきたのである。ああ、こんなつまらないことに神経を奪われてしまうとは、私もなんという大馬鹿者であろう。これはすべての馬鹿騒ぎのあとから起こったことであるが、ここに書き加える価値があると思う。いつも馬鹿にしていたことも、今みずからこれを経験するに及んで、もはやミルン氏の話も、例の運転士の話も、いずれもこれを疑うことが出来なくなったからである。
畢竟《ひっきょう》、これとてたいしたことではない――ただ一つの音だけであったに過ぎない。私はこの日記を読まれる人が、いつかこの条《くだり》を読むとしても、私の感情と共鳴し、あるいはその時わたしに及ぼしたような結果を実感せられるであろうとは思わない。
さて夕食が終わって、私は寝《しん》に就く前に、しずかに煙草をふかそうと思って、甲板へ登って行った。夜は甚《はなは》だ暗く――その暗さは、船尾端艇《ウォーターボート》の下に立っていてさえも、ブリッジの上にいる運転士の姿が見えないほどであった。前にも言った通り、非常な沈黙がこの氷の海に充《み》ち満ちているのである。この世界
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