何物をも見たことがない。彼には、罪を犯した人のような様子は少しも見えない。かれは苛酷な運命の取り扱いを受けて、罪人というよりはむしろ殉教者と認むべき人のような様子が多く見られるのであった。
今夜の風は南にむかって吹き廻っている。ねがわくば、われわれが唯一《ゆいいつ》の安全航路であるところの、あの狭い通路が遮断されないように――。大北極の氷群、すなわち捕鯨者のいわゆる「関所《バリアー》」のはしに位してはいるが、どんな風でも北さえ吹けば、われわれの周囲の氷を粉砕して、われわれを助けてくれることになる。南の風は解けかかった氷をみなわれわれのうしろへ吹きよせて、二つの氷山の間へわれわれを挾むのである。どうぞ助かるようにと、私はかさねて言う。
九月十四日。日曜日にして、安息日。わたしの気遣っていたことが、いよいよ実際となって現われた。
唯一の逃げ道であるべき碧《あお》い細長い海水の通路が、南の方から消えてきた。怪しげな氷丘と、奇妙な頂端を持って動かない一大氷原が、吾人の周囲につらなるのみである。恐ろしいその広原を蔽《おお》うものは、死のごとき沈黙である。今や一つのさざなみもなく、海の鴎《
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