かもめ》の鳴く声もきこえず、帆を張った影もなく、ただ全宇宙にみなぎる深い沈黙があるばかりである。
 その沈黙のうちに、水夫らの不平の声と、白く輝く甲板の上にかれらの靴のきしむ音とが、いかにも不調和で不釣合いに響くのである。ただ訪れたものは一匹の北極狐《アークチック・フォックス》のみで、これも陸上では極めてありふれたものであるが、氷群の上にはまれである。しかしその狐も船に近づかず、遠くから探るような様子をしたのちに、氷を超えて速《すみや》かに逃げ去ってしまった。これは不思議な行動というべきで、北極の狐は一般に人間をまったく知らず、また穿索《せんさく》好きの性質であるので、容易に捕えられるほど非常に慣れ近づくものであるからである。信ぜられないことのようであるが、この際こんな些細《ささい》な事件でさえも、船員らには悪影響を及ぼしたのであった。
「あの清浄な動物は怪物を知っている。そうだ。われわれを見てではなく、あの魔物を見たからなのだ」というのが、主だった魚銛発射手《もりうち》の一人の注釈であった。そうして、その他の者も皆それに同意を示したので、こんな他愛もない迷信に反対しようとする者さえも、まったく無益のことであった。かれらはこの船の上には呪いがあると信じ、そうして、たしかにそうであると決定してしまったのである。
 船長は午後の約三十分、後甲板へ出てくる以外は、終日《しゅうじつ》自分の部屋にとじこもっていた。わたしは彼が後甲板で、きのう、かの幻影が現われた場所をじっと見入っているのを見たので、またどうかするのではないかとじゅうぶん覚悟していたが、別に何事も起こらなかった。私はそのそば近くに立っていたが、彼はかつて私を見る様子もなかった。
 機関長がいつものごとくに祈祷をした。捕鯨船のうちで、イングランド教会の祈祷書が常に用いられるのはおかしなことである。しかも高級船員のうちにも、普通船員のうちにも、けっしてイングランド教会の者はいないのである。われわれは天主教徒《ローマン・カトリック》か長老教会派《プレスビテリアンス》のもので、天主教徒が多数を占めている。そこで、どちらの信徒にも異なる宗派の儀式が用いられているのであるから、いずれも自分たちの儀式がいいなどと苦情を言うことも出来ない。そうして、そのやりかたが気に入ったものであれば、かれらは熱心に傾聴するのである。
 かがやく日没の光りが、大氷原を血の湖《うみ》のように彩《いろど》った。私はこんな美しい、またこんな気味の悪い光景を見たことがない。風は吹きまわしている。北風が二十四時間吹くならば、なお万事好都合に運ぶであろう。

       四

 九月十五日。きょうはフロラの誕生日なり。愛する乙女《おとめ》の君よ。君のいわゆるボーイなる私が、頭の狂った船長のもとに、わずか数週間の食物しかなくて、氷のうちにとじこめられているのが、君にはむしろ見えないほうがいいのである。うたがいもなく、彼女はシェットランドからわれわれの消息が報道されているかどうかと、毎朝スコッツマン紙上の船舶欄を、眼を皿にして見ていることであろう。わたしは船員たちに手本を示すために、元気よく、平静をよそおっていなければならない。しかも神ぞ知ろしめす。――わたしの心は、しばしば甚《はなは》だ重苦しい状態にあることを――。
 きょうの温度は華氏十九度、微風あり。しかも不利なる方向より吹く。船長は非常に機嫌がいい。彼はまた何かほかの前兆か幻影を見たと想像しているらしい。ゆうべは夜通し苦しんだらしく、けさは早くわたしの室《へや》へ来て、わたしの寝棚によりかかりながら、「あれは妄想であったよ。君、なんでもないのだよ」と、ささやいた。
 朝食後、彼は食物がまだどれほどあるかを調べて来るように、わたしに命じたので、早速二等運転士とともに行ったところ、食物は予期したよりも遙かに少なかった。船の前部に、ビスケットの半分ばかりはいったタンクが一つと、塩漬けの肉が三樽、それから極めてわずかのコーヒーの実と、砂糖とがある。また、後船鎗と戸棚の中とに、鮭の鑵詰、スープ、羊肉の旨煮《うまに》、その他のご馳走がある。しかし、それとても五十人の船員が食ったらば、瞬《またた》くひまに無くなってしまうことであろう。なお貯蔵室に粉《こな》二樽と、それから数の知れないほどに煙草がたくさんある。それら全体を引っくるめたところで、各自の食量を半減して、約十八日|乃至《ないし》二十日間ぐらいを支え得るだけのものがある――おそらく、それ以上はとうてい困難であろう。
 われわれ両人がこの事情を報告すると、船長は全員をあつめて、後甲板の上から一場の訓示を試みた。私はこの時ほどの立派な彼というものを今まで見たことがない。丈高く引きしまった体躯、色やや浅黒く溌剌たる顔、彼
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