頭が水中に泳いでいるのが見えたので、その一頭を射とめると、十一フィート以上の実に素晴らしいやつであった。かれらは獰猛な喧嘩好きの動物で、優に熊以上の力があるといわれているが、幸いにその動作はにぶく不器用なので、氷の上でかれらを襲ってもほとんど危険というものがない。
 船長はこれが苦労の仕納めだとは全然思っていないようであった。他の船員らはみな奇蹟的脱出をなし得たと考えて、もはや広い大海へ出るのは確実であると思っているのに、なにゆえに船長は事態を悲観的にのみ見ているのか、わたしにはとうてい測り知られないことである。
「ドクトル。察するに、君はもう大丈夫だと思っているね」と、夕食の後、一緒にいる時に船長は言った。
「そうありたいものです」と、私は答えた。
「だが、あまり楽観してはならない。もっとも、たしかなことはたしかだが……。われわれはみな、間もなく自分自分のほんとうの愛人のところへ行かれるのだよ。ねえ、君、そうではないかね。しかしあまり楽観してはならない。……楽観し過ぎてはならないね」
 彼は考え深そうに、その足を前後にゆすりながら、しばらく黙っていた。
「おい、君」と、彼はつづけた。「ここは危険な場所だよ。一番いい時でも、いつどんな変化があるか分からない危険な場所だ。わしはこんなところで、まったく突然に人がやられるのを知っている。ちょっとした失策の踏みはずしが、時どきそういう結果を惹き起こすのだ。――わずかに一つの失策で氷の裂け目に陥落して、あとには緑の泡が人の沈んだところを示すばかりだ。まったく不思議だね」
 彼は神経質のような笑い方をしながら、なおも語りつづけた。
「ずいぶん長い間、毎年わしはこの国へ来たものだが、まだ一度も遺言状を作ろうなどと考えたことはない。もっとも、特にあとに残すようなものが何も無いからでもあるが……。しかし人間が危険にさらされている場合には、よろしく万事を処理し、また用意しておくべきだと思うが、どうだね」
「そうです」と、私はいったい、彼が何を思っているのかと怪しみながら答えた。
「誰にしたところが、それがみな決めてあると思えば安心するものだ」と、彼はまた言った。「そこで、何かわしの身の上に起こったら、どうかわしに代って君が諸事を処理してくれたまえ。わしの船室《キャビン》にはたいしたものもないが、まあ、そんなつまらないものでも売り払って
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