候はないかね。一番最初の徴候は何かね」
「頭痛、耳鳴り、眩暈《めまい》、幻想……まあ、そんなものです」
「ああ、なんだって……?」と、突然に彼はさえぎった。「どんなのを幻想《デルージョン》というのだね」
「そこに無いものを見るのが幻想です」
「だって、あの女はあすこにいたのだよ」と、彼はうめくように言った。「あの女はちゃんとそこにいたよ」
 彼は起ち上がってドアをあけ、のろのろと不確かな足取りで、船長室へ歩いて行った。
 わたしは疑いもなく、船長は明朝までその部屋にとどまることと思った。彼がみずから見たと思った物がどんなものであるとしても、彼のからだは非常な衝動《ショック》を受けたようである。
 船長は日毎《ひごと》にだんだんおかしくなってくる。わたしは彼自身が暗示したことが本当のことであり、またその理性が冒《おか》されているのを恐れた。彼が自己の行為に関して、何か良心の呵責《かしゃく》を受けているのであると、わたしは思われない。こんな考えは、高級船員などの間ではありふれた考え方であり、また普通船員のうちにあってもやはり同様であると信じられる。しかし私は、この考え方を主張するに足るべき何物をも見たことがない。彼には、罪を犯した人のような様子は少しも見えない。かれは苛酷な運命の取り扱いを受けて、罪人というよりはむしろ殉教者と認むべき人のような様子が多く見られるのであった。
 今夜の風は南にむかって吹き廻っている。ねがわくば、われわれが唯一《ゆいいつ》の安全航路であるところの、あの狭い通路が遮断されないように――。大北極の氷群、すなわち捕鯨者のいわゆる「関所《バリアー》」のはしに位してはいるが、どんな風でも北さえ吹けば、われわれの周囲の氷を粉砕して、われわれを助けてくれることになる。南の風は解けかかった氷をみなわれわれのうしろへ吹きよせて、二つの氷山の間へわれわれを挾むのである。どうぞ助かるようにと、私はかさねて言う。

 九月十四日。日曜日にして、安息日。わたしの気遣っていたことが、いよいよ実際となって現われた。
 唯一の逃げ道であるべき碧《あお》い細長い海水の通路が、南の方から消えてきた。怪しげな氷丘と、奇妙な頂端を持って動かない一大氷原が、吾人の周囲につらなるのみである。恐ろしいその広原を蔽《おお》うものは、死のごとき沈黙である。今や一つのさざなみもなく、海の鴎《
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