らいで、日光が葉がくれにちらちらと輝いているのが見えた。ジョヴァンニは更に進んで、隠れた入り口の上を蔽っている灌木の蔓《つる》がからみつくのを押しのけて、ラッパチーニ博士の庭の広場にある自分の窓の下に立った。
 われわれはしばしば経験することであるが、不可能と思うようなことが起こったり、今まで夢のように思っていたことが実際にあらわれたりすると、歓楽または苦痛を予想してほとんど夢中になるような場合でも、かえって落ち着きが出て、冷やかなるまでに大胆になり得るものである。運命はかくのごとくわれわれにさからうことを喜ぶ。こういう場合には、情熱が時を得顔《えがお》にのさばり出て、それがちょうどいい工合《ぐあい》に事件と調和するときには、いつまでもその事件の蔭にとどこおっているものである。
 今のジョヴァンニは、あたかもそういう状態に置かれてあった。彼の脈搏《みゃくはく》は毎日熱い血潮で波打っていた。彼はベアトリーチェに逢って、彼女を美しく照らす東洋的な日光を浴びながら、この庭で彼女と向かい合って立ち、彼女の顔をあくまでも眺めることによって、彼女の生活の謎になっている秘密をつかもうと、出来そうもないことを考えていた。しかも今や彼の胸には、不思議な、時ならぬ平静が湧いていた。彼はベアトリーチェか、またはその父がそこらにいるかと思って、庭のあたりを見まわしたが、まったく自分ひとりであるのを知ると、さらに植物の批評的観察をはじめた。
 ある植物――否《いな》、すべての植物の姿態が彼には不満であった。その絢爛《けんらん》なることもあまりに強烈で、情熱的で、ほとんど不自然と思われるほどであった。たとえば、ひとりで森の中をさまよっている人が、あたかもその茂みの中からこの世のものとも思われぬ顔が現われて、じろりと睨《にら》まれた時のように、その不気味な姿に驚かされない灌木はほとんどなかった。また、あるものはいろいろの科に属する植物を混合して作り出したかと思われるような、人工的の形状で、感じやすい本能を刺戟した。それはもはや神の創造したものではなく、単に人間がその美を下手に模倣して、堕落した考えによって作りあげたものに過ぎなかった。これらはおそらく一、二の実験の結果、個個《ここ》の植物を混合して、この庭の全植物と異った、不思議な性質をそなえたものに作り上げることにおいて成功したのであろう。ジョヴァンニはただ二、三の植物を集めてみたが、それは彼が有毒植物ということを、かねて熟知している種類のものであった。
 こんな考察にふけっているとき、彼はふと衣《きぬ》ずれの音を聞いた。ふりかえって見ると、それはベアトリーチェが、彫刻した入り口の下から現われ出たのであった。

       三

 ジョヴァンニはこの際いかなる態度をとるべきものか。庭園に闖入《ちんにゅう》した申しわけをすべきものかどうか。また、みずから望んだことではなくても、少なくともラッパチーニとその娘には無断でここへ立ち入ったことを自認すべきものかどうか。そんなことは別に考えていなかったので、その瞬間すこしくあわてたが、ベアトリーチェの態度を見るにつけて、彼の心はやや落ち着いた。もっとも、誰の案内でここにはいることを許されたかということになれば、なおそこに一種の不安がないでもなかった。彼女は小径《こみち》を軽く歩んで来て、こわれた噴水のほとりで彼に出逢って、さすがに驚いたような顔をしていたが、また、その顔は親切な愉快な表情に輝いていた。
「あなたは花の鑑識家でございますね」と、ベアトリーチェは彼が窓から投げてやった花束を指して微笑《ほほえ》みながら言った。「それですから、父の集めた珍しい花に誘惑されて、もっと近寄って見たいとお思いになるのも不思議はありません。もし父がここにおりましたら、自然こういう灌木の性質や習慣などについて、いろいろな不思議なおもしろいことをお話し申し上げることが出来ましょうに……。父はそういう研究に一生涯をついやしました。そうして、この庭が父の世界なのでございます」
「あなたもそうでしょう」と、ジョヴァンニは言った。「世間の評判によると、あなたもたくさんの花やいい匂いについて、ずいぶんご造詣《ぞうけい》が深いそうではありませんか。いかがです、わたしの先生になって下さいませんか。そうすると、わたしはラッパチーニ先生の教えを受けるよりも、もっと熱心な学生になるのですが……」
「そんないい加減な噂があるのでしょうか」と、ベアトリーチェは音楽的な愉快な笑い方をして訊《き》いた。「わたくしが父に似て植物学に通じているなどと、世間では言っておりますか。まあ、冗談でしょう。わたくしはこの花のなかに育ちましたけれど、色と匂いのほかには、なんにも存じませんのです。その貧弱な知識さえも時どきに失《な》くなってしまうように思うことがあります。ここにはたくさんの花があって、あまりにけばけばしいので、それを見るとわたくしはなんだか忌《いま》いましくなって来ます。しかしあなた、こうした学術に関するわたくしの話は、どうぞ信用して下さらないように……。あなたのご自分の眼でご覧になることのほかは、わたくしの言うことなどはなんにもご信用なさらないで下さい」
「わたしは自分の眼で見たものをすべて信じなければならないのですか」と、ジョヴァンニは以前の光景を思い出して逡巡《しりごみ》しながら、声をとがらして訊いた。「いいえ、あなたはわたくしに求めなさ過ぎます。どうぞ、あなたの口唇《くちびる》からもれること以外は信じるなと言って下さい」
 ベアトリーチェは彼の言うことを理解したように見えた。彼女の頬は真紅《まっか》になった。しかも彼女はジョヴァンニの顔をじっと眺めて、彼が不安らしい疑惑の眼をもって見ているのに対して、さながら女王のような傲慢《ごうまん》をもって見返した。
「では、そう申しましょう。あなたがわたくしのことをどうお考えになっていたとしても、それは忘れて下さい。たとい外部の感覚は本当であっても、その本質において相違しているところがあるかもしれません。けれども、ベアトリーチェ・ラッパチーニのくちびるから出る言葉は、心の奥底から出る真実の言葉ですから、あなたはそれを信じて下すってもよろしいのです」
 彼女の容貌には熱誠が輝いていた。その熱誠は真実そのものの光りのようにジョヴァンニの意識の上にも輝いた。しかし、彼女がそれを語っている間、その周囲の空気のうちには、消えやすくはあるが豊かないい匂いがただよっていたので、この青年はなんとも知れぬ反感から、努めてその空気を吸わないようにしていた。
 その匂いは花の香りであろう。しかも、彼女の言葉をさながら胸の奥にたくわえてあったかのように、かくも不思議の豊富にしたのは、ベアトリーチェの呼吸であろうか。一種の臆病心は影のようにジョヴァンニの胸から飛び去ってしまった。彼は美しい娘の眼を通して、水晶のように透きとおったその魂を見たように思って、もはやなんの疑惑も恐怖も感じなかった。
 ベアトリーチェの態度にあらわれていた情熱の色は消えて、彼女は快活になった。そうして、孤島の少女が文明国から来た航海者と談話をまじえて感ずるような純な歓びが、この青年との会合によって彼女に新しく湧き出したように思われた。
 明らかに彼女の生涯の経験は、その庭園内に限られていた。彼女は日光や夏の雲のような、単純な事物について話した。また、都会のことや、ジョヴァンニの遠い家や、その友人、母親、姉妹《きょうだい》などについてたずねた。その質問はまったく浮世離れのした、流行などということはまったく掛け離れたものであったので、ジョヴァンニは赤ん坊に話して聞かせるような調子で答えた。
 彼女は今や初めて日光を仰いだ新しい小川が、その胸にうつる天地の反映に驚異を感じているような態度で、彼の前にその心を打ち明けた。また、深い水源《みなもと》からはいろいろの考えが湧き出して、あたかもダイヤモンドやルビーがその泉の泡の中からでも光り輝くように、宝石のひかりを持った空想が湧き出した。
 青年の心には折りおりに懐疑の念がひらめいた。彼は兄妹《きょうだい》のように話をまじえて、彼女を人間らしく、乙女《おとめ》らしく思わせようとするようなある者と、相並んで歩いているのではないかと思った。その人間には怖ろしい性質のあらわれるのを彼は実際に目撃しているのであって、その恐怖の色を理想化しているのではないかと思った。しかもこうした考えはほんの一時的のもので、彼女の非常に真実なる性格のほうは、容易に彼を親しませるようになったのである。
 こういう自由な交際をして、かれらは庭じゅうをさまよい歩いた。並木のあいだをいくたびも廻り歩いたのちに、こわれた噴水のほとりに来ると、そのそばにはめざましい灌木があって、美しい花が今を盛りと咲き誇っていた。その灌木からは、ベアトリーチェの呼吸《いき》から出るのと同じような一種の匂いが散っていたが、それは比較にならないほどにいっそう強烈なものであった。彼女の眼がこの灌木に落ちたとき、ジョヴァンニは彼女の心臓が急に激しい鼓動を始めたらしく、苦しそうにその胸を片手でおさえるのを見た。
「わたしは今までに初めておまえのことを忘れていたわ」と、彼女は灌木に囁《ささや》きかけた。
「わたしが大胆にあなたの足もとへ投げた花束の代りに、あなたはこの生きた宝の一つをやろうと約束なすったのを覚えています。今日お目にかかった記念に、今それを取らせて下さい」と、ジョヴァンニは言った。
 彼は灌木の方へ一歩進んで手をのばすと、ベアトリーチェは彼の心臓を刃《やいば》でつらぬくような鋭い叫び声をあげて駈け寄って来た。彼女は男の手をつかんで、かよわいからだに全力をこめて引き戻したのである。ジョヴァンニは彼女にさわられると、全身の繊維が突き刺されるように感じた。
「それにふれてはいけません。あなたの命がありません。それは恐ろしいものです」と、彼女は苦悩の声を張りあげて叫んだ。
 そう言ったかと思うと、彼女は顔をおおいながら男のそばを離れて、彫刻のある入り口の下に逃げ込んでしまった。ジョヴァンニはそのうしろ姿を見送ると、そこには、ラッパチーニ博士の痩せ衰えた姿と蒼《あお》ざめた魂とがあった。どのくらいの時間かはわからないが、彼は入り口の蔭にあってこの光景を眺めていたのであった。

 ジョヴァンニは自分の部屋にただひとりとなるやいなや、初めて彼女を見たとき以来、ついに消え失せないありたけの魅力と、それに今ではまた、女性らしい優しい温情に包まれたベアトリーチェの姿が、彼の情熱的な瞑想のうちによみがえってきた。彼女は人間的であった。彼女はすべての優しさと、女らしい性質とを賦与《ふよ》されていた。彼女は最も崇拝にあたいする女性であった。彼女は確かに高尚な勇壮な愛を持つことができた。彼がこれまで彼女の身体および人格のいちじるしい特徴と考えていたいろいろの特性は、今や忘れられてしまったのか。あるいは巧妙なる情熱的詭弁によって魔術の金冠のうちに移されてしまったのか。彼はベアトリーチェをますます賞讃すべきものとし、ますます比類なきものとした。これまで醜《みにく》く見えていたすべてのものが、今はことごとく美しく見えた。もしまた、かかる変化があり得ないとしても、醜いものはひそかに忍び出て、昼間は完全に意識することの出来ないような薄暗い場所にむらがる漠然とした考えのうちに影をひそめてしまった。
 こうして、ジョヴァンニはその一夜を過ごしたのである。彼はラッパチーニの庭を夢みて、あかつきがその庭に眠っている花をよび醒ますまでは、安らかに眠ることができなかった。
 時が来ると日は昇って、青年のまぶたにその光りを投げた。彼は苦しそうに眼をさました。まったく醒めたとき、彼は右の手に火傷《やけど》をしたような、ちくちくした痛みを感じた。それは彼が宝石のような花を一つ取ろうとした刹那に、ベアトリーチェに握られたその手であった。手の裏には、四本の指の痕《あと》の
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