いた。
 しかし朝の光りは、太陽が没している間に、または夜の影のあいだに、あるいは曇りがちな月光のうちに生じたところの、どんな間違った想像をも、あるいは判断さえも、まったく改めるものである。眠りから醒めて、ジョヴァンニがまっさきの仕事は、窓をあけてかの庭園をよく見ることであった。それは昨夜の夢によって、大いに神秘的に感じられてきたのであった。早い朝日の光りは花や葉に置く露をきらめかし、それらの稀に見る花にも皆それぞれに輝かしい美しさをあたえながら、あらゆるものをなんの不思議もない普通日常の事として見せている。その光りのうちにあって、この庭も現実の明らかな事実としてあらわれたとき、ジョヴァンニは驚いて、またいささか恥じた。この殺風景な都会のまんなかで、こんな美しい贅沢《ぜいたく》な植物を自由に見おろすことの出来る特権を得たのを、青年は喜んだのである。彼はこの花を通じて自然に接することが出来ると、心ひそかに思った。
 見るからに病弱の、考え疲れたような、ドクトル・ジャコモ・ラッパチーニも、またその美しい娘も、今はそこには見えなかったので、ジョヴァンニは自分がこの二人に対して感じた不思議を、どの程度までかれらの人格に負わすべきものか、また、どの程度までを自分自身の奇蹟的想像に負わすべきものかを、容易に決定することが出来なかった。しかし彼はこの事件全体について、最も合理的の見解をくだそうと考えた。
 その日、彼はピエトロ・バグリオーニ氏を訪問した。氏は大学の医科教授で、有名な医者であった。ジョヴァンニはこの教授に宛てた紹介状を貰っていたのである。教授は相当の年配で、ほとんど陽気といってもいいような、一見快活の性行を有していた。彼はジョヴァンニに食事を馳走し、殊《こと》にタスカン酒の一、二罎をかたむけて、少しく酔いがまわってくると、彼は自由な楽しい会話でジョヴァンニを愉快にさせた。ジョヴァンニは双方が同じ科学者であり、同じ都市の住民である以上、かならず互いに親交があるはずだと思って、よい機《おり》を見てドクトル・ラッパチーニの名を言い出すと、教授は彼が想像していたほどには、こころよく答えなかった。
「神聖なるべき仁術の教授が……」と、ピエトロ・バグリオーニ教授は、ジョヴァンニの問いに答えた。「ラッパチーニのごとき非常に優れた医者の、適当と思われる賞讃に対して、それを貶《けな》すようなことを言うのは悪いことであろう。しかし一方において、ジョヴァンニ君。君は旧友の子息である。君のような有望の青年が、この後《のち》あるいは君の生死を掌握するかもしれないような人間を尊敬するような、誤まった考えをいだくのを黙許してもいいかわるいかという僕は自己の良心に対して、少しばかりそれに答えなければならない。実際わが尊敬すべきドクトル・ラッパチーニは、ただ一つの例外はあるが、おそらくこのパドゥアばかりでなく、イタリー全国におけるいかなる有能の士にも劣らぬ立派な学者であろう。しかし、医者としてのその人格には、大いなる故障があるのだ」
「どんな故障ですか」と、青年は訊《き》いた。
「医者のことをそんなに詮索《せんさく》するのは、君は心身いずれかに病気があるのではないかな」と、教授は笑いながら言った。「だが、ラッパチーニに関しては――僕は、彼をよく知っているので、実際だと言い得るが――彼は人類などということよりも全然、科学の事ばかりを心にかけているといわれている。彼におもむく患者は、彼には新しい実験の材料として興味があるのみだ。彼の偉大な蘊蓄《うんちく》に、けしつぶぐらいの知識を加えるためにも、彼は人間の生命――なかんずく、彼自身の生命、あるいはそのほか彼にとって最も親しい者の生命でも、犠牲に供するのを常としているのだ」
「わたしの考えでは、彼は実際|畏《おそ》るべき人だと思います」と、心のうちにラッパチーニの冷静なひたむきな智的態度を思い出しながら、ジョヴァンニは言った。「しかし、崇拝すべき教授であり、また、まことに崇高な精神ではありませんか。それほどに科学に対して、精神的な愛好をかたむけ得る人が他にどれほどあるでしょうか」
「少なくとも、ラッパチーニの執《と》った見解よりは、治療術というもっと健全な見解を執るのでなかったら……。ああ、神よ禁じたまえ」と、教授はやや急《せ》き立って答えた。「あらゆる医学的効力は、われわれが植物毒剤と呼ぶものの内に含蓄されているというのが、彼の理論である。彼は自分の手ずから植物を培養して、自然に生ずるよりは遙かに有害な種じゅの恐ろしい新毒薬を作ったとさえいわれている。それらのものは彼が直接に手をくださずとも、永遠にこの世に禍《わざわ》いするものである。医者たる者がかくのごとき危険物を用いて、予想よりも害毒の少ないことのあるのは、否定し得ないことである。時どきに彼の治療が驚くべき偉効を奏し、あるいは奏したように見えたのは、われわれも認めてやらなければなるまい。しかしジョヴァンニ君。打ち明けて言えば、もし彼が……まさに自分が行なったと思われる失敗に対して、厳格に責任を負うならば、彼はわずかの成功の例に対しても、ほとんど信用を受けるにたらないのである。まして、その成功とてもおそらく偶然の結果に過ぎなかったのであろう」
 もしこの青年が、バグリオーニとラッパチーニの間に専門的の争いが長くつづいていて、その争いは一般にラッパチーニのほうが有利と考えられていたことを知っていたならば、バグリオーニの意見を大いに斟酌《しんしゃく》したであろう。もしまた、読者諸君がみずから判断をくだしてみたいならば、パドゥア大学の医科に蔵されている両科学者の論文を見るがよい。
 ラッパチーニの極端な科学研究熱に関して語られたところを、よく考えてみた後に、ジョヴァンニは答えた。
「よく分かりませんが、先生。あの人はどれほど医術を愛しているか、私には分かりませんが、確かにあの人にとって、もっと愛するものがあるはずです。あの人には、ひとりの娘があります」
「ははあ」と、教授は笑いながら叫んだ。「それで初めて君の秘密がわかった。君はその娘のことを聞いたのだね。あの娘についてはパドゥアの若い者はみな大騒ぎをしているのだが、運よくその顔を見たという者は、まだほんの幾人《いくにん》もない。ベアトリーチェ嬢については、わたしはあまりよく知らない。ラッパチーニが自分の学問を彼女に十分に教え込んだということと、彼女は若くて美しいという噂だが、すでに教授の椅子に着くべき資格があるということと、ただそれだけを聞いている。おそらく彼女の父は、将来わたしの椅子を彼女のものにしようと決めているのだろう。ほかにまだつまらない噂は二、三あるが、言う価値もなく、聞く価値もないことだ。では、ジョヴァンニ君。赤葡萄酒の盃をほしたまえ」

       二

 ジョヴァンニは飲んだ酒《ワイン》にやや熱くなって、自分の下宿へもどった。酒のために、彼の頭はラッパチーニと美しいベアトリーチェについて、いろいろの空想をたくましゅうした。帰る途中で偶然に花屋のまえを通ったので、彼は新しい花束を一つ買って来た。
 彼は自分の部屋にのぼって、窓のそばに腰をおろしたが、自分の影が窓の壁の高さを超えないようにした。それで、彼はほとんど発見される危険もなしに庭を見おろすことができた。眼の下に人の影はなかったが、かの不思議な植物は日光にぬくまりながら、時どきにあたかも同情と親しみとを表わすかのように、静かにうなずき合っていた。庭園の中央のこわれた噴水のほとりには、それを覆《おお》うように群がる紫色の花をつけて、めざましい灌木が生えていた。花は空中に輝き、それが池水《プール》の底に映じて再びきらきらと照り返すと、池の水はその強い反射で、色のついた光りを帯びて溢れ出るようにも見えた。
 初めは前に言ったように、庭には人影がなかった。しかし間もなく――この場合、ジョヴァンニが半ば望み、半ば恐れたごとく――人の姿が古風の模様のある入り口の下にあらわれた。そうして、植物の列をなしている間を歩み来ながら、甘い香りを食べて生きていたという古い物語のなかの人物のように、植物のいろいろの香気を彼女は吸っていた。ふたたびベアトリーチェをみるに及んで、青年がいっそうおどろいたのは、彼女がその記憶よりも遙かに美しいことであった。彼女は太陽の光りのうちに輝き、また、ジョヴァンニがひそかに思っていた通り、庭の小径《こみち》の影の多いところを明かるく照らすほどに、その人は光り輝いているのであった。
 彼女の顔は前のときよりも、いっそうはっきりと現われた。そうして、彼は天真爛漫な柔和な娘の表情に、いたく心を打たれた。こんな性質を彼女が持っていようとは、彼の考えおよばないところであったので、彼女がいったいどんな質《たち》の人であろうかと、彼は新たに想像してみるようになった。彼は忘れもせずに、この美しい娘と、噴水の下に宝石のような綺麗な花を咲かせている灌木と、この両者の類似点を再び観察し、想像するのであった。――この類似は、彼女の衣服の飾りつけと、その色合いの選択とによって、ベアトリーチェが弥《いや》が上にも空想的気分を高めたからであった。
 灌木に近づくと、彼女はあたかも熱烈な愛情を有しているかのように、その両腕を大きくひらいて、その枝をひき寄せて、いかにも親しそうに抱えた。その親しさは、彼女の顔をその葉のうちに隠し、きらめく縮れ毛は皆その花にまじって埋められてしまうほどであった。
「|私の姉妹《マイ・シスター》! あなたの息をわたしに下さい」と、ベアトリーチェは叫んだ。「わたしはもう、普通の空気がいやになったのですから。――そうして、あなたのこのお花を下さいな。わたしはきっと大事に枝を折って、わたしの胸《ハート》の側にちゃんとつけて置きます」
 こう言って、ラッパチーニの美しい娘は灌木の最も美しい花の一輪をとって、自分の胸につけようとした。しかしこの時、あるいは酒のためにジョヴァンニの意識が混乱していたのかもしれないが、もしそうでないとすれば、実に不思議なことが起こった。小さいオレンジ色の蜥蜴《とかげ》かカメレオンのような動物が小径を這って、偶然にベアトリーチェの足もとへ近寄って来たのである。
 ジョヴァンニが見ている所は遠く離れていて、そんなに小さなものは到底《とうてい》見えなかったであろうと思われるが、しかし彼の眼には、花の切り口から、一、二滴の液体が蜥蜴の頭に落ちたと見えたのである。すると、その動物はたちまち荒あらしく体をゆがめて、日光のもとに動かなくなってしまった。ベアトリーチェはこの驚くべき現象をみて、悲しそうであったが格別におどろきもせず、しずかに十字を切った。それから彼女はためらいもせずに、その恐ろしい花を取って自分の胸につけると、花はまたたちまちに紅《くれない》となって、ほとんど宝石も同様にきらきらと輝いて、この世の何物もあたえられないような独特の魅力を、その衣服や容貌にあたえるのであった。ジョヴァンニはびっくりして、窓のかげから差し出していた首を急に引っ込めて、慄《ふる》えながら独りごとを言った。
「おれは眼が覚めているのだろうか。意識を持っているのだろうか。いったい、あれはなんだろう。美しいと言っていいのか、それとも大変に怖ろしいというのか」
 ベアトリーチェはなんの気もつかないように、庭をさまよい歩きながらジョヴァンニの窓の下へ近づいて来たので、彼女に刺戟された痛烈の好奇心を満足させるためには、彼はそこから首を突き出さなければならなかった。あたかもそのときに庭の垣根を越えて、一匹の美しい虫が飛んで来た。おそらく市中を迷い暮らして、ラッパチーニの庭の灌木の強い香気に遠くから誘惑されるまでは、どこにも新鮮な花を見いだすことが出来なかったのであろう。
 この輝く虫は花には降りずに、ベアトリーチェに心を惹《ひ》かれてか、やはり空中をさまよって彼女の頭のまわりを飛びまわった。これはどうしてもジョヴァンニの見あやまりに相違なかった
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