多く用いていたのは、わたしが想像していた通り、彼が相当の教育を受けた男であることを思わせたのである。
 こうして話している間にも、彼はしばしば小さいベルの鳴るのに妨げられた。彼は通信を読んだり、返信を送ったりしていた。またある時はドアの外へ出て、列車が通過の際に信号旗を示し、あるいは機関手にむかって何か口で通報していた。彼が職務を執るときは非常に正確で注意ぶかく、たとい談話の最中でもはっきりと区切りをつけ、その目前の仕事を終わるまではけっして口をきかないというふうであった。
 ひと口にいえば、彼はこういう仕事をする人としては、その資格において十分に安心のできる人物であるが、ただ不思議に感じられたのはある場合に――それは彼が私と話している最中であったが、彼は二度も会話を中止して、鳴りもしないベルの方に向き直って、顔の色を変えていたことであった。彼はそのとき、戸外のしめった空気を防ぐためにとじてあるドアをあけて、トンネルの入り口に近い、かの赤い灯を眺めていた。この二つの出来事ののち、彼はなんとも説明し難い顔つきをして、火のほとりに戻って来たが、そのあいだに別に変わったこともないらしかった。
 彼に別れて起《た》ち上がるときに、私は言った。
「君はすこぶる満足のように見うけられますね」
「そうだとは信じていますが……」と、彼は今までにないような低い声で付け加えた。「しかし私は困っているのです。実際、困っているのです」
「なんで……。何を困っているのです」
「それがなかなか説明できないのです。それが実に……実にお話しのしようがないので……。またおいでになった時にでもお話し申しましょう」
「わたしも、また来てもいいのですが……。いつごろがいいのです」
「わたしは朝早くここを立ち去ります。そうして、あしたの晩の十時には、またここにいます」
「では十一時ごろに来ましょう」
「どうぞ……」と、彼は私と一緒に外へ出た。そうして、極めて低い声で言った。
「路《みち》のわかるまで私の白い燈火《あかり》を見せましょう。路がわかっても、声を出さないで下さい。上へ行き着いた時にも呼ばないで下さい」
 その様子がいよいよ私を薄気味わるく思わせたが、私は別になんにも言わずに、ただ、はいはいと答えておいた。
「あしたの晩おいでの時にも呼ばないで下さい。それから少しおたずね申しますが、どうしてあなたは今夜おいでの時に〈おぅい、下にいる人!〉と、お呼びになったのです」
「え。私がそんなようなことを言ったかな」
「そんなようなことじゃありません。あの声は私がよく聞くのです」
「私がそう言ったとしたら、それは君が下の方にいたからですよ」
「ほかに理由はないのですな」
「ほかに理由があるものですか」
「なにか、超自然的の力が、あなたにそう言わせたようにお思いにはなりませんか」
「いいえ」
 彼は「さようなら」という代りに、持っている白い燈火をかかげた。
 私はあとから列車が追いかけて来るような不安な心持ちで、下り列車の線路のわきを通って自分の路を見つけた。その路はさきに下って来たときよりも容易に登ることが出来たので、さしたる冒険もなしに私の宿へ帰った。

 約束の時間を正確に守って、わたしは次の夜、ふたたびかの高低のひどい坂路に足をむけた。遠い所では、時計が十一時を打っていた。彼は白い燈火を掲げながら、例の低い場所に立って私を待っていた。わたしは彼のそばへ寄った時に訊《き》いた。
「わたしは呼ばなかったが……。もう話してもいいのですか」
「よろしいですとも……。今晩は……」と、彼はその手をさし出した。
「今晩は……」と、わたしも手をさし出して挨拶した。それから二人はいつもの小屋へはいってドアをしめて、火のほとりに腰をおろした。
 椅子に着くやいなや、彼はからだを前にかがめて、ささやくような低い声で言った。
「わたしが困っているということについて、あなたが重ねておいでになろうとは思っていませんでした。実は昨晩は、あなたをほかの者だと思っていたのですが……。それが私を困らせるのです」
「それは思い違いですよ」
「もちろん、あなたではない。そのある者が私を困らせるので……」
「それは誰です」
「知りません」
「わたしに似ているのですか」
「わかりません。私はまだその顔を見たことはないのです、左の腕を顔にあてて、右の手を振って……激しく振って……。こんなふうに……」
 わたしは彼の動作を見つめていると、それは激しい感情を苛立《いらだ》たせているような腕の働き方で、彼は「どうぞ退《ど》いてくれ」と叫ぶように言った。そうして、また話し出した。
「月の明かるい、ある晩のことでした。私がここに腰をかけていると〈おぅい、下にいる人!〉と呼ぶ声を聞いたのです。私はすぐに起《た》って、そのド
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